第三者による研究評価書

研究テーマ グローバル・ガバナンス 新たな国際秩序を求めて
報 告 書 名 グローバル・ガバナンス−「新たな脅威」と国連・アメリカ−
評  価  者 納家 政嗣(一橋大学大学院法学研究科教授)
山本 吉宣(青山学院大学国際政治経済学部教授)
原田 勝広(日本経済新聞編集委員)

納家 政嗣(一橋大学大学院法学研究科教授)

1.1990年以降、国際社会ではさまざまな秩序のあり方が模索されてきた。こうした秩序論の一つが表題の「グローバル・ガバナンス」(以下、あまりにくどくなる場合は「GG」と略記する)であった。この研究会、及びその成果である『グローバル・ガバナンス』は、いまだにその内容が明らかになったとはいえないグローバル・ガバナンス概念の今日的な新しい内容を提示しようとする意欲的な研究である。第一に今日の国際社会は、大量の難民や虐殺、その他の人権侵害、内戦から麻薬売買、人身売買、環境問題まで戦争がないだけの秩序では不十分という認識が共有されつつあり、本書の問題意識はそうした動向を的確に捉えている。第二に国際社会は前世紀末からこの問題を検討する際に欠くことのできない幾つかの困難を実際に経験し、その結果新たな展望を見出すべき時期を迎えている。その意味で本書は時宜を得ているだけでなく、この時期に相応しい視点を積極的に探っている。高く評価したい点である。新秩序の模索は1990年代前半の国連中心の希望に満ちた多国間主義的な構想の時代から90年代後半の多国籍軍による強制措置の根拠・評価を巡るやや混乱した時代、そして対米同時多発テロ事件(2001年)を経てアメリカの武力行使や体制転換政策が目立つ「帝国」的秩序とまで形容される時代へと目まぐるしく変わったが、いずれも大きな成果をあげたとは言いにくい状態のまま今日に至っている。このような試行錯誤を経てグローバル・ガバナンスは、突出した政治・経済・軍事力を持ちながら国益を越える対外政策を打ち出すことが困難になってきたアメリカと国家を超えて地球全体の生存・生活条件改善のために公共財供給を改善しようとする国連やNGO、多国間主義の発展を追及する欧州連合(EU)の間の相克を解くことの中にしか見出せないのではないか、そういう認識に辿り付いた。本研究は一方でのアメリカの対外政策、その実行の分析、他方での国連、EUのアプローチ、活動を二つの柱にすえて、その相互関係に中に新秩序のあり方を探る構えを取って、今取り組むべき課題に果敢に挑戦している。このことは実際、第I部にアメリカ内政・外交研究、第II部にGGの試金石とも言うべきアフガニスタン、イラクの事例研究、第III部に国連とEU研究を配した構成に明確に示される。所収の各論文は重要な情報や新鮮な視点を、特にアフガニスタン、イラク情勢の分析は一般的な印象論を覆す実証的な分析が示され、グローバル・ガバナンスの内実を考える上で有益な材料を豊富に提供している。

2.全般的には評価者は本書を以上にように高く評価する。それを前提として以下、いくつかの論点について若干の疑問も含めて評価を記したい。もっとも基本的な問題は、上に述べた狙いがきちんと文章を通して伝わるほどに内容が統合されていないという点につきのではないかと思う。本書の最大の課題は、それ自体極めて論争的なグローバル・ガバナンス概念自体をどう考えるのが妥当か、という問題にそろそろ一定の見方を提示することにあったように思われる。共同研究には限界があるということかもしれないし、この種の共同研究の場合各論文を個別に評価すべきということかもしれない。しかし本研究から読者がもっとも受け取りたいメッセージはグローバル・ガバナンス全体の性格、方向性を含むGGとは何か、についての考え方であろうし、今回の共同研究でしめせなかったということならば今後の検討課題として指摘しておきたいと思う。たとえば序章は本書全体に関わるおおむね従来の議論を適切に踏まえたグローバル・ガバナンスの定義を示している。それは「地球規模の問題に適切に対処する能力」とされ、以下に示されるのは緩やかな国際機構、国家、非国家アクターが世界的に連携した効率的で公正な行政の集合イメージである。その中で主体として国連を中心とする普遍的国際機構、地域機構、国家及びその有志連合、NGOが列挙されている。これは序章だけ読む限り問題はないとはいえ、次の第I部アメリカの内政や外交、また第III部国連の限界に関する分析をこの枠組みでどう理解するか、多くの読者はそこに齟齬を感じるのではないか。国際社会が抱える課題は量的にも質的にも大きく変わりそれゆえに「国際」を越える「グローバル」ガバナンスが求められているのであるが、しかし続く各章をも見る限りそれもまたかなり多くの部分が国際関係の中で実現される。とすれば、この研究はグローバル・ガバナンスと現代の国際社会における国家の性格や役割・機能、国家間の階層構造などとの関係についての何らかの視点・枠組みを欠くことは出来なかったのではないか。たとえば第I部第1章アメリカ内政研究は、アメリカがどのくらい軍、人材、専門能力、資金を国際社会に提供できるか、それに対するアメリカ国内の支持がどの程度あるかという問題を提起している。一国の内政はグローバル・ガバナンスにどのように関わるか。定義において主たる主体とされた国連が、決議を執行する能力がなく国連の外で行われるグローバル・ガバナンスの試みも重要とされている点も、矛盾はしていないであろうが、定義にどうおさまるのか分かりにくい。本書において提起されるさまざまな問題を包摂する論理があらかじめ示されなければ、統一的なメッセージを受け取るのは難しいであろう。

3.上に述べたことはグローバル・ガバナンスをどう捉えるかが実はもっとも厄介な問題であるが、本書の参加者が共有したGGの認識がどういうものであったか、がうまく伝わらないもどかしさでもある。再読・三読して共通認識の案外大きな障害になったのは、この概念を硬い実体概念とする見方を解きほぐせなかった点にあったのではないかと言う点に思いあたった。それを強く感じたのは第I部のアメリカ研究である。第2章のアメリカの内政論、第3章のG・W・ブッシュ政権の外交論は、いずれも突出した大国であるアメリカが普遍的な理念を掲げつつ内向きの内政に制約され、大規模手テロ後は単独主義、先制攻撃論、軍事的優位の堅持、理念・使命感の誇示が入り混じった対外政策の維持・舵取りに苦しんでいることが精細に描かれている。この国の目からGGを考えることの難しさの解説には説得力があった。言うまでもなくアメリカは反テロと大量破壊兵器不拡散を越えて一般的なGGにはそれほど関心を持っていない。ただアメリカ研究とGGとの関連が見えにくいもう一つの理由は、敢えて言えばアメリカ研究がGGをアメリカの内政や外交の外側にあって、それにアメリカがどう関わるかという視点で考えている点にあるのではないかと思う。GGは様々なアクターの多様な活動や措置が作り出す秩序機能の総称であるから、実はアメリカの内政も外交もそれ自体GGの大きな一部と考えたほうがよい。GGの基礎とも言うべき普遍的理念を国際社会に植えつけてきたのはアメリカであった。その国内基盤は意外と移ろいやすいから、アメリカが内向きになれば世界はその程度のGGしか享受できないというだけのことである。冷戦期のガバナンスは、質は違ったがある意味ではもっと貧弱だった。アメリカが国連中心のGGを嫌うからといって、アメリカ抜きの世界はよりよいガバナンスを手に出来るだろうか。むしろガバナンスは現在よりも貧弱で実効性を欠くものになる可能性も大いにあるであろう。その意味でGG概念をもう少し緩めて視点を多少そちらへずらすことでアメリカの内政・外交をGGの機能、効率などに読み替えて行くだけでも、GG研究にさらに大きな示唆を与えられたのではないか。4章は今日の重要な国際秩序の柱である「(大量破壊兵器の)拡散安全保障構想(PSI)」を分析している。PSIはフォーマルな制度ではなこともあり重要性は大きくなるのにその実態は必ずしも明らかではない。この論考はPSIの構造や機能の細部にまで至る詳細な分析を提示しており現代のガバナンスの理解を深める貴重な貢献といえる。ただここでも欲を言えばPSIがGGかという、GGを実体化した問題の立て方は読み手をやや混乱させるところがある。PSIがガバナンスであるかどうかが問題なのであろうか、そしてPISの構成要素をガバナンスの要件に読み替えてPSIはガバナンスである、といってみてもGG論に何を加えたことになるのかよく分からなかった。GGの議論として知りたいのはなぜ今日のガバナンスの重要な要素が「不拡散」問題なのか、誰がどういう理由で誰に大量破壊兵器の保有を禁じようとしているのか、どこに階層や規範の線を引こうとしているのか、ということであろう。指摘されているように誰に対してこの制度を発動するか(なぜインドは許されイランは禁じられるのか?)が明確でなければ、どのように制度を整えてもこの深刻化する問題を「ガバーン」することはできない。そこからは「誰に対して」というガバナンスの根幹は、実は制度というよりは結局は極めて政治的な判断に委ねられる(PSIは国連外の活動である)というGGの一つの性格も垣間見えるように思われる。GGをも少し柔軟にとらえその実態に踏み込めば、ここに示された制度の詳細な分析がさらに精彩を増したように思われる。

4.第II部は今日のGGの試金石とも言うべきアフガニスタンとイラクという二つの事例についてアメリカの関与、アメリカと国連の関係という視点から分析されている。ここに収載された問題提起を含む4論文は、敢えて単純化すればグローバル・ガバナンスにとって極めて重要なレベル間関係に挑戦している。「グローバル」という形容詞のせいでしばしば誤解されるが、解決を迫られている多くの問題が顕在化するのは実は国家(ナショナル・ガバナンス)があまりに脆弱であるゆえに生じる様々なローカル・レベルのガバナンスにおいてなのである。その点の認識の変更を迫る第II部の現地の情報を駆使した緻密な分析は本書のもっとも優れた部分になっている。一体、なぜこのような状況が生まれたのか。冷戦によって覆い隠されていたがこの時期に国際社会は植民地から独立を果たした国内統治の弱い国家を大量に含むシステムに変容していた。戦後の経済発展と技術革新は70年代以降グローバルな経済・社会変動を、地域や国家レベルの制度的適応をはるかに凌駕する勢いで進行させた。多くの途上国は80年代には既に統治が弱くなり旱魃・洪水などの天災が長期の飢餓や難民を引き起こす状況に陥っていた。冷戦の終結はこのグローバリゼーションにアメリカ化、そして「9・11大規模テロ事件」後は対テロ戦争という性格を加える。したがって現状はもともと脆弱だった国家のグローバル化の中での疲弊と、その後のアメリカの政策によるナショナル・ガバナンスの解体という二つが平行・交錯して生じているところに特徴があるのであろう。第II部で取り上げられるのは、現代のGGの試金石のようになった後者の事例である。アフガニスタンはテロリストの拠点となったことで、またイラクは大量破壊兵器の開発疑惑(それは実証されなかった)により攻撃を受けた。GGの課題は反テロ・WMD不拡散一色に塗り込められた。テロリストは追放され、大量破壊兵器の開発疑惑は解消されたから通常の国際関係のレベルの問題はある程度解決されたのかもしれないが、それは解体した国家の再建というGGにとって最大の問題を突きつけた。GGの困難の一つはあるレベルでの問題解決が、国際レベルにとどまらずローカル・レベルまで含めた他のレベルへの問題の押し出しになる、複合的なトレード・オフ関係の処理にあることが説得的に明らかにされている。2章、3章の分析はそこに展開される地域間、民族間、宗派間の均衡を求める、要する権力闘争が人間のアイデンティティという原初的なレベルにまで関わるようになり、アメリカの関与によって内戦に近づいてゆくメカニズムを明らかにする。見事な分析といってよい。一体ステ−ト・ビルディングは、外部から可能であるのかどうか。現状はアメリカがそれを推進しようとすればするほど政権の現地での正統性が遠のき、さらに戦争に容易に勝利できる圧倒的な米軍は復興・国家建設には不向きで地元の反発を増幅するというジレンマに陥っているということである。イラクではもともと宗派対立があったのではなく米軍が作り出した権力の空白において宗派が政治勢力化するという解析は、今日のGGの困難を突きつけて余りある。その上、4章がアフガンとイラクの対照的事例の分析が示すようにこの状況では「国連は無防備な官僚組織」に過ぎなくなってしまい、アメリカの関与は国連の権威すら損なっていくのである。これらの章の分析は、徐々に地元勢力の自発的な権力構成に依存しなくてはならなくなる力学を示しており、機能構造論的に考えれば一夜にして人間の意識が変わることがない以上、同じ経済・社会・文化の下に従来と全く異なる権力秩序が根付く可能性が大きいとも思えない。国際的関与が長期的に市場経済と民主主義、人権尊重のよりましなローカル・ガバナンスを可能にするのか、そうした答えのない不安な問題提起がGGの縮図として提示されたことの意義は小さくない。

5.第III部は国連・EUの検討であり、第1章は国連事務総長のハイ・レベルパネル報告書を批判的に検討して問題提起に代えている。その結果は改革提言が新しい世界の現実を踏まえたものではなく、論理的一貫性を欠き、大胆な改革案にもなっていない、と言うものである。この厳しい批判は、日本の常任理事国入りに偏った関心を持つ一般マスコミではあまり取り上げられていないが、非常に鋭い重要な分析であり、恐らく報告書を一読したものはおよそ同意する適切な評価であろう。冒頭でグローバル・ガバナンスの主要な主体として国連が挙げられていることを紹介したが、GGの改善にためには国連自身の改革が重要で、しかもその見通しは上の報告書にうかがわれるように決して明るいとはいえない。この点は本書において一層強調されて良い部分であるように思われた。さらに言えば検討がこのようなちぐはぐな改革案が出てくる国際政治上の駆け引きにまで及べば、現実にどの程度のGGが可能かの理解も深まったように思われる。続く2、3、4章では国連とアメリカ、EUの多国間主義の評価、国連システム自体のガバナンスが取り上げられている。個別には啓発される論点が多く含まれているが、いずれもが問題にしている論点について言えば国連・多国間主義とアメリカないし加盟国の国益追求行動との調和を求めることがGGの議論にとって建設的か、という点を改めて考えさせられた。2章はアメリカが国連の多国間主義の利益を再発見し、国連は意思決定メカニズムにメスを入れる必要を説いているが、そこに述べられている米の思考様式から言っていずれも期待しにくいように思われる。3章はEUの実効的な多国間主義の整備が述べられている。それは国連の多国間主義と重なり、「人間の安全保障対応部隊」の建設を含めそれを補完する体制である。これはアメリカとは一線を画すものと位置づけられているが、帝国的秩序形成の不可能性が明らかになりつつある現状ではむしろ役割分担と見られる側面も少なくないように感じられる。4章は国連がもう一つの安全保障システム(人間の安全保障、平和構築)を追求しており、これに伴う国連の事業活動の増大につれて求められるシステム自体のガバナンス、とりわけ効率、透明性、説明責任の改善が指摘されている。たとえば安保理改革には著しく消極的なアメリカも、この事務局を中心とする国連ガバナンスの改革にははるかに積極的である。第III部のメッセージが国連多国間主義と米の単独主義に振れやすい対外政策の関係に関っているとすれば、両者の関係に余りに調和を求めることは現実のGGの見方にある種の願望を忍び込ませるのではないか。本来国益の観点から政策を取捨選択する加盟国と国家を超えて地球的な諸問題に対する公正・効率的な施策を模索する国際機構の立場は調和的ではありえない。逆に対立・競合は必ずしもGGの不在を意味するとは限らない。第一に加盟国と国際機構は利害が一致するわけではないが役割分担、相互補完は可能であり、第二に対立関係は正統性を与えないことでたとえ有力国であっても加盟国の権力行使の長期的な牽制効果を持つであろう。調和的であるべきものという前提を外せば、GGをもう少し柔軟に考えることが出来るのではないか。第III部からこの点の示唆を得た。もう一点、EUの扱いは多国間主義を中心にしているが、第II部でも示唆されるようにGGの大きな課題がローカル(ナショナル)・ガバナンスの構築にあるとすれば、これまでの経験からグローバルなレベルでのプランや調整は不可欠であるにしても実質的に役立つのはリージョナル・ガバナンスの強化であろう。この観点はGGの議論をさらに豊かにするはずである。

6.アメリカと国連の関係を軸にグローバル・ガバナンスを考えようとした本書は、必ずしもGG論の主流にはないかも知れない。しかしここ15年ほどの間に世界が経験したことを踏まえるならば、これが取り組まれるべき課題であったことは明らかである。既に本書に示されるように国連中心主義は例外的な出来事であったことが明らかになったし、ナショナリズムの時代を通過した現代では帝国的秩序も不可能であることは十分に試された。そこからさらにグローバル・ガバナンスをどう考えたらよいか、を問うたのが本書である。最後に付された提言を含めてここには今後のグローバル・ガバナンスを考える材料が詰まっている。読者がここから様々な自らの新しいグローバル・ガバナンスのイメージを発展させることができる優れた啓発的な研究である。


山本 吉宣(青山学院大学国際政治経済学部教授)

 現在の国際秩序は、9.11後の、それも安全保障・軍事力の行使分野で見ると、大きな揺らぎが見える。それは、アメリカが、アフガニスタン、それも特にイラクに関して、国連安保理の決議なくして、単独的な軍事力を行使し、戦争を開始した、ということに顕著に見られる。そして、アフガニスタンにしても、またイラクにしても、戦後の統治(占領統治を含む)、国家建設はスムーズに行われているとはいえない。このような課題に関して、果敢に挑戦したのが、本書であり、また、本書は、NIRAの研究プロジェクトの成果である。

 本書の大筋は、9.11、アフガニスタン、イラクを主題とし、「新しい脅威」にアメリカと国連がいかに対応し、また、より一般的にいえば、テロ、大量破壊兵器という問題に国際社会がいかに対処し、新しい枠組みを作っていけばよいのかを、グローバル・ガバナンスという概念、視点から接近しようとするものである。そして、そのことを通して、日本の政策への含意を得ようとするものである。今日の国際政治の状況を考えれば、きわめて至当な問題設定であると考えられ、またチャレンジングな研究プロジェクトであるといえよう。

 本書は、3つの部から成り立っている。第I部は、「アメリカでなにがおきているのか」、第2部は、「グローバル・ガバナンスとアメリカ」、第3部は、「グローバル・ガバナンスと国連・EU」である。それに、序章(「グローバル・ガバナンスと今日の国際社会の課題」)、そして、最後に編者3人による提言が収められている。

 以下においては、本書の部立て、章立てに必ずしも沿わず、私なりの、本書の内容とそれに対する私見を述べてみたい。

1.グローバル・ガバナンス
 グローバル・ガバナンスとは、さまざまな国際的な問題に対して、さまざまな主体(国家、国際機関、NGO、企業など)が協力して、適切な多様な手段で、それを解決しようとするものである。かつては、グローバル・ガバナンスというとき、強制力は極力排除されるべきものと考えられていたが、本書ではテロや大量破壊兵器の拡散には軍事力の行使はときと場合によっては排除できないものとしている。また、安全保障分野において、国連の安全保障理事会、あるいはEUなどの国家の集合体の軍事力使用をグローバル・ガバナンスの問題として捉えている。ある意味で、新しいグローバル・ガバナンス論と言えるであろう。

 さらに、第2部第1章においては、(軍事力の行使の分野において)、国連安保理型ガバナンス、帝国的ガバナンス、有志連合型ガバナンス、という類型を示している。このような類型を含めてもしグローバル・ガバナンスを語るとしたら(とくに帝国的ガバナンス、有志連合型ガバナンス)、それは、かつてのグローバル・ガバナンス論とはかなり異なるものであろう。それは、本書が、アフガニスタン戦争、イラク戦争を正面から取り上げたという理由によろう(たとえば、環境などをとりあげれば、別の議論が展開されたであろう)。このことは、かつて、Robert Gilpinが、War and Change in World Politics (1981)において、世界大国を中心とする国際政治の統治(governance)を説き、また、現在では、Michael Mandelbaumがアメリカを中心とするglobal governanceを説いていることと通ずるところがある(The Case for Goliath 2005)。もちろん、筆者たちの評価は、帝国的なガバナンスをよしとするものではない。それがとくにアメリカの単独主義に基づいているときには。

 本書の、グローバル・ガバナンス論のいまひとつの特徴は、単にグローバルな次元だけではなく、地域(たとえば、紛争周辺国、地域機構、等)、国家、さらに地方(ローカル)という異なるレベルにおいけるガバナンスを提示し、それらの間の関係を明示的に示していることである。このような枠組みは、たとえば、戦争後の平和構築のあり方、また、その分析に大きな力を発揮している(とくに第II部)。さらに、グローバル・ガバナンスを評価するに当たって、効果、効率、公平、公開、民主主義、責任という基準を提示し、それをもって、グローバル・ガバナンスの発展を図ろうとしている。これは、効果とアウトカムの評価とあいまって、今後の発展を期待するべき分野である。

2.国連
 本書において、グローバル・ガバナンスの典型的であり、最も重要なものは国連とされる。すなわち、その普遍性と正当性の淵源としての機能である。したがって、国連の強化が大きな課題となっている。それも、イラク戦争において、アメリカが国連安保理の明示的な決議をとらず、また、先制攻撃的にイラクを攻撃した、という国連憲章にもとる行動をした、それをどう解決し、アメリカを国連の場に戻していくか、という問題意識である。そして、このような問題意識に基づいて作られたといわれる国連改革のためのハイレベル委員会の報告書についての詳細な検討が行われる(本書のいくつかのところにそれが見られるが、とくに第III部第1章)。ハイレベル委員会の報告書は多岐に渡る問題を取り上げているが、とくに本書の本筋からいえば、急迫性のある脅威に対しては、意思と能力を持つ国々の軍事行動を容認すべきであること、また、一定の条件の下での先制攻撃をみとめること、が指摘されていることが重要であろう。特に後者の先制攻撃に関しては、本書の筆者たちは、懐疑的であり、あるいは条件の明確化が必要であると論じている。ハイレベル委員会の報告書は、ミレニアム開発目標の達成や、経済社会理事会の改革など、(旧)グローバル・ガバナンスの主流の事項も含まれている。

3.有志連合
 国連は、本書全体を通じて、(軍事力の行使の)正当性の淵源と捉えられている。問題となるのは、一つには、逆説的であるかもしれないが、拒否権を持つ安保理常任理事国の行動であり、常任理事国のひとつでも反対すれば、物事は動かない(ブレア・イギリス首相の言うunreasonable veto)ことである(本書の筆者の中には、拒否権そのものを再検討するよう提案している)。二つには、それとの関連で、正当性と実行(実効)性との間に乖離が存在する可能性がある、ということである。ここで、実効性とは、グローバルな問題を実際に解決する事であるが、ある国が自国が真に重要であると考える問題を(国連、国際制度を通して)解決することができるということである。正当性と実効性が乖離することが (注1)、有志連合の形成につながる。私見によれば有志連合にはいくつか種類がある。(注2)

 一つは、国際制度の中で、グローバルな問題を解決するために、そのルールに従い、意思と能力のある国々が 実効集団を形成する、という類型がある。これは、国連安保理決議のもとで形成された多国籍軍がそれに当たろう(朝鮮戦争、第1次湾岸戦争、東ティモール、等)(ハイレベル委員会でいうのは、この種類の有志連合である)。また、第III部第3章で、詳しく紹介されるEUの危機管理における軍事行動は、国連の決議に基づくものであり、この類型に含まれるものである。しかしながら、EUの危機管理における軍事行動は、二重の意味で有志連合である。すなわち、それは、国連のもとでの有志連合であるだけではなく、EUの中での(あるいは、EU以外のメンバーをも含むが)有志連合である。すなわち、EUのなかで、意思と能力のある国々が参加するのである(第III部第3章表1)。

 この類型の変種として、国連の決議は受けないが、国連憲章に従って軍事行動を行う場合である。自衛権の発動とか、自国民救済である。アメリカのアフガニスタン攻撃は、自衛権の発動であり、またNATOやリオ条約、またANZUSは、集団的自衛権を発動し、有志連合が形成された。

 このような、国連の枠内での有志連合に対して、安保理決議なくして、(国連憲章に反して)、しかしNATOなどの国際制度に基づいて有志連合が形成される場合がある。その典型的な例が1999年のNATOによるコソボの空爆である。EUの軍事力の行使に関しては、このような可能性を排除していないという(第III部第3章)。これに対して、本書の執筆者の中には留保を示している。

 以上のような有志連合に対して、国連にも、地域的な国際制度にも拠らない軍事行動と有志連合の形成も存在する。イラク戦争がその典型である。この場合、集団的正当性は著しく低い。また、そこでの有志連合の形成は、実行集団の数で、正当性を補完する役割を果たす。

 いまひとつの有志連合は、国連などの既存の国際制度の枠組みの外で形成されるが、それは、既存の国際制度の規範やルールにもとるものではない、というものである。PSIがその典型的な例である(第I部第4章)。このような有志連合は、国際システムが構造変化を起こすとき、多かれ少なかれ見られるものである。たとえば、安全保障の分野ではないが、経済サミット(1974年形成)がそれである。また、現在進行中の朝鮮半島の核問題をめぐる六者協議も、その例である。本書の論者の一人が言うように、サミット(あるいは、この類型の有志連合)の正当性は必ずしも高くはない。しかしながら、グローバル・ガバナンスを考え、またアメリカのリーダーシップを考え、「新しい脅威」に対処しようとするとき、この類の有志連合は、きわめて有効であると考えられる。

4.アメリカ
 さて、イラク戦争を起こしたのはアメリカであり、安全保障理事会の明示的な決議を取らず、また先制攻撃を行ったのはアメリカである。本書では、私見によれば、アメリカの行動は、国際秩序を乱すものであるという評価を下す一方、他方では、それは、アメリカの長年にわたる国連に対するアンビバレンスの発露であり(第III部第2章)、またアメリカの国内政治によるものとの理解を示している。アメリカの単独主義や先制攻撃論は、国際政治の環境の変化(たとえば、単極化、テロ)によるところがあるかもしれないが、多くは、アメリカが保守化していることに求められ、アメリカの行動の変化はアメリカの国内政治によるところが大きい、というのが、本書のアメリカを取り扱う章の基本的な考えであるようである(第I部第2章、第3章、提言I)。

 アメリカの政治は、60年代、70年代と比べると大きく保守化している。それは、宗教右派の台頭、新保守主義、さらには共和党全体が大いに保守化しているということである。共和党は、2000年大統領選挙に勝ち、94年から基本的には上下院の多数を占める。とはいえ、2000年、2004年の大統領選挙を見ても、共和、民主の勢力は拮抗している。アメリカの保守にはいくつかのものがあるが、そのなかには、国連などの国際制度を嫌い、単独主義を論ずるものが多く、また、アメリカの価値を前面に押し出す対外政策を擁護する。そして、単独主義とアメリカ的価値の拡大は、合わせて新保守主義外交の核心となる。そしてそれは、アメリカ例外主義(普遍的な規範の適用除外)とアメリカニズムをあらわす。このようなアメリカの政策原理(とくにアメリカ例外主義)は、グローバル・ガバナンスと真っ向から対立するものである。アメリカのこのような行動が変化するのは、基本的にはアメリカの国内政治である。そして、グローバル・ガバナンス(あるいは国連)へアメリカを戻すには、政府、市民等さまざまなレベルにさまざまな方法で働きかけることである(提言I)。

5.アフガニスタンとイラク
 グローバル・ガバナンス、それも多層的なガバナンスという観点(グローバル、地域、国家、ローカル)から見れば、アフガニスタンとイラクは、伝統的なPKOでは、捉えきれないものである。それは、まさに軍事力を伴った占領、治安維持、国家建設、民主化に関るものである(第III部)。それも、米軍を中心とするものである。アフガニスタンもイラクもいまだ安定していない。しかし、アフガニスタンのほうがうまく言っている。たとえば、アフガニスタンにおいては、アフガニスタンの隣国を含めて、ガバナンスの構造が形成されているが、イラクにおいてはそれは不完全である。かつて、グローバル・ガバナンスというとき(それも平和構築に関して)、それは国連や国際市民社会(NGO)が主となるものであった。しかしながら、アフガニスタン、イラクにおいては、軍事力が大きな役割を果たし、米軍なり、多国籍軍なくしては、国家建設(少なくともその初期段階)は行い得ない。また、NGO(そして、国連さえ)は、軍の協力なくしては活動し得ない。ここに、軍民協力(CIMIC)が大きな役割をすることになる。新しい、現象であり、研究分野である。

6.日本
 グローバル・ガバナンスは、もちろん安全保障をも取り扱うものであるが、その多くは、環境、開発などを主要な対象とするものであり、日本にとっては、人間の安全保障を含めて、政策的にとくに障害となるものはなかったと思われる。そして、本書の筆者たちも、その分野でのグローバル・ガバナンスに日本が積極的に貢献することを促進することを提言している。しかしながら、アフガニスタン、イラクに見られるように、軍事力(の行使)が大きな役割をする分野になると、日本の選択は容易ではない。日本は、アフガニスタン戦争に関連して、燃料補給のために海上自衛隊をインド洋に派遣し、人道復興支援、後方支援のため陸上自衛隊、航空自衛隊をイラクに派遣している。それは、一方で国連安保理の決議に基づいたものであり、他方では、日米の密接な安全保障協力の結果でもある。本書の論者の一人が述べているように、日本は、(日米の)二国間関係と国連との関連をバランスをとりながら進めなければならないのである。また、国家建設(や平和構築)に軍の役割が重要になるケースの場合、日本はどこまで自衛隊を非戦闘的な目的に使うのか、軍民協力を如何に考えていくのか、大きな課題である。

 本書(あるいは、本プロジェクト)は、現在の国際秩序を考える上で、また、最終的には日本はいかなる政策を展開するべきかを考える上で、大きな貢献をするものと考えられる。私から見て、本書は、グローバル・ガバナンスと銘打っているが、新しいグローバル・ガバナンス論といってもよい。すなわち、9.11後の状況を踏まえて、軍事力の行使を(どう評価するかは別にして)正面から取り上げている。また、アメリカの行動を非難するのではなく、その行動の深層を抉り出そうとしていることも評価される。そして、一方で、グローバル・ガバナンスへの求心力と、アメリカの行動(そして、それが国内的要因に根ざし、簡単には変化しない)というグローバル・ガバナンスからの遠心力 (注3)を余すところなく示している。本書においては、この求心力と遠心力の解決法を示しているわけではないが、その問題が「新しい脅威」に対するグローバル・ガバナンスの核心であることを明らかにしている。

 本書は、各分野の専門家が、読み応えのある論文を物している。そして、内容は、単に事実を記述するだけではなく、thought provokingな議論を展開している。ただ、「新しい脅威」が、一つの書物として取り扱うには、若干分散的であり、またそれと関連して、「旧グローバル・ガバナンス」と「新グローバル・ガバナンス」(あるいは取り扱う分野)が必ずしも明確に区分されておらず、ひとつの書物として読むとき、読みにくいところがある。

注)

  1. これとは若干異なる視点から、星野(第3部第2章)は、国連とアメリカとの関係を権威と権力と区分している。

  2. この辺、山本吉宣「有志連合と国際システムの構造変化」『青山国際政経論集』2006年1月。

  3. 現アメリカ国連大使のジョン・ボルトンは、かつてグローバル・ガバナンスを明確に否定する論文を書いている(John Bolton, 'Should We Take Global Governance Seriously?' Chicago Journal of International Law, 1, 2000, 205-21)。


原田 勝広(日本経済新聞編集委員)

 米国同時多発テロ以降の大きな課題となっているグローバル・ガバナンスのあり方について、米国、国連、EU等専門家によって構成される研究会で多面的、多層的に研究、考察された報告だけに、実証的、かつ緻密であり、随所に鋭い洞察と良質な示唆を含む内容となっているとの印象を持った。

 以上の前提に立ち、おおむね「提言 新たな国際秩序を求めて」に沿う形で評価を試みた。個別には以下のような指摘ができると思う。

I) 「新たな脅威に対応するためには、軍事力だけではなく、人間の安全保障をはじめ、非軍事的な対応を含む包括的安全保障体制が必要である」とされることについて――この点は極めて重要であり、いくら強調してもしすぎる事はない。「新たな脅威」が貧困と密接な関係があるとの認識のもとに、先進国が国連と一体になって、ミレニアム開発目標(MDGs)の達成に力を入れている現状はその象徴である。人間の安全保障のうち「恐怖からの自由」は安全保障理事会に任せるにしても、「欠乏からの自由」はこれまで安保理の関心事からは抜け落ちてきた。貧困、エイズなど経済社会的課題が、国際の平和と安全にとって無視しえないファクターであるとの新たな安全保障観は説得力がある。国連システムの変革に向け、ニューヨークの国連本部でのフォーラム機能と合わせて、世界各地の現場で国連機関が展開するプロジェクト実施者としての国連の機能と可能性を再認識する必要がある。

II) 「グローバル・ガバナンスにおいては、米国の物理的な権力と、国連の正統的な権威の協力が不可欠である」とされることについて――アクター間の連携、強化は重要であるが、米国と国連という二者の関係については、冷静な観察を要する。両者はまったく別者ではなく、ここでいう国連の実体である国連安保理のリーダーが米国そのものであるという関係だからだ。安保理のあり方を巡っては、「大国主導vs民主的安保理」「効率性vs普遍性」の対立がある。国連創設当時は、大国が効率性を求め、冷戦終焉後は普遍性重視の民主的な安保理が志向された経緯がある。超大国となった米国はますます前者の立場を強めている。つまり、自国の国益に沿う場合は国連の枠のなかで行動するが、国益が害されると判断すれば国連という場を放棄する。米国にしてみれば、国連は単なるツールであって、それ以上でも以下でもない。そういう視点からは、新のグローバル・ガバナンスへの道は、米国と国連の協力というよりは、むしろ、普遍性のある民主的な安保理への模索の方が先決であろう。

III) 国連改革に関して
(1) 「国連の正統性の確立のためには、常任理事国や拒否権の問題をはじめとする安保理の政策決定過程を改革が必要である」とされることについて――拒否権の取り扱いは微妙な問題である。しかし、これまでの安保理改組への動きをフォローする限り、主要国間では「現在の常任理事国の拒否権はそのまま。新たに常任理入りする国には拒否権は付与しない」という線で、合意が形成されているようにも見受けられる。理論的には、「二カ国の拒否で拒否権成立」などさまざまなアイデアがありうるが、現実的かという点で疑問が残る。

(2) 「包括的なシステムの構築」の中で、グローバル・コンパクトの推進を提案していることは評価できる。アナン事務総長がダボスの世界経済フォーラムで提唱したものだが、経済のグローバル化で企業が国家に匹敵するだけのパワーとリソースを持つ。また、多くのビジネス・リーダーが貧困の問題に関心を寄せる時代に、市場の力に注目するのは当然である。MDGsが欧米企業間では、CSR(企業の社会的責任)の観点からの社会貢献の指標になっており、MDGs実現にも企業の協力を模索することが重要だ。 (3) 総会、経済社会理事会の改革は古くて新しい問題である。国連の安全保障機能が不信と不満の対象になっているのに反し、開発、あるいは、経済社会問題での国連の貢献は各方面から高く評価されている。そういう意味では、こうした機能をどう強化していくべきか、本書でも、もう少し、広範で深堀りな論考がほしかった。ただ、限定的だが言及がある市民社会との協力、国連システムの諸機関との調整は、とりわけ今後の改革のポイントとなる点では異議がない。

 国連憲章第10章(経済社会理事会)には、NGOとの協議制度が規定されており、NGOと国連は関係が深い。経済社会理事会に三つのカテゴリーで登録され、人権、女性、難民、軍縮、環境など幅広い分野で、議論に貢献している。また、本書の記述通り、1992年の地球サミット以降の一連の世界会議でも大いに活躍してきた。市民社会の象徴であるNGOを国連の仕組みに取り込むことで、一層国連の基盤が強固になるのは間違いない。「NGOが参加する第二総会を」という構想はそういう時代の要請に合致したもので、多くの支持を集める可能性がある。さらに詰めた具体的な提案を期待したい。国連諸機関の相互協力・調整は多難である。主要なものだけでも29機関を数える国連システムは、いい仕事をしていることは認めるのにやぶさかではないが、非効率な面が多々ある。仕事でいえば、各機関でだぶっている分野が多いし、調整しようにも、本部が世界各地に独立、分散しているため、いかんともしがたいとの声は多い。提案にあるような「現地中心あるいは具体的問題領域ごとに進める」というのもひとつの現実的な行き方かもしれないと思慮される一方、国連機関のなんらかの合理化が大前提であるべきではないかという感を否めない。

IV) 日本の役割に関して
 「自国の利益のみを前提に行動することは許されず、つねに国際社会の共通利益を念頭において行動する必要がある」という考えを共有したいと思う。日本がそのためのグローバル・ガバナンス確立にどんな役割を果たすことができるだろうか。地球的規模の問題と取り組むのに、これまでは資金や機材に偏りがあったとして、今後は人的支援、技術の提供、軍事的協力を提案している。いずれも日本に欠けていたもので、傾聴に値するものである。ただ、これに関連して、付記するとすれば、国際機関で働く人材育成に加え忘れてならないのは、すでに国連機関で働いている人の活用である。国際的に幅広いネットワークを持つ彼らは日本の財産と考えるべきである。情報交換、さまざまな意味での協力はもちろん、国際機関と政府・官庁・企業との人的交流などのシステムを確立することも考える時が来ている。技術的な協力は今後開発の余地が大きい分野と思われる。日本企業自身が気づいてないものもあり、MDGsの視点からももう一度、日本の技術がどう貢献できるかチェックが必要だ。軍事的協力については、前向きに考えるべきであるが、一般国民の間ではまだまだ論議がある。あくまで国民的コンセンサスを前提に、何ができるかを慎重に考えるべきであろう。


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