松里公孝
東京大学大学院法学政治学研究科教授

概要

 ロシアによるウクライナ侵攻の背景を、歴史的に形成された民族の単位に関する問題と、現代の安全保障上の問題とに分けて解説する。まず、東スラブの3民族のアイデンティティーは重なり合う部分を持っていたが、ソ連時代に政府は諸民族の領域的自治のため、それぞれ独立の民族として人工的に区分した。この区分は国家分裂の可能性を高め、実際にソ連は分裂した。巨大な国家を失ったことにプーチン大統領ら右派は怒りを抱いている。次に、安全保障面ではNATOの拡大とロシア・ウクライナ間の領土問題を扱う。ウクライナとグルジア(ジョージア)のNATO入りは、ロシアにとって絶対に許せないことであった。両国の加盟が提案されたのは、アメリカ大統領選挙戦での人気取りのためである。ウクライナでもNATO加盟問題が、選挙戦での民族主義的動員の道具として使われた。また、領土問題が発生したのは、ユーロマイダン革命の暴力から、クリミアとドンバスが逃げようとしたためである。ロシアは、ドンバスがウクライナに復帰し、内側からNATO加盟を阻止してほしかったが、それは実現していない。
 日本にはウクライナに関する知識が足りていない。恒常的に多様な情報に接するべきである。また、ウクライナについて、常にロシアとの関係に照らして考えることは適切ではなく、ウクライナ自体を観察すべきである。ロシアとの関係において考えるから、ウクライナの問題点を指摘することが、即、ロシアの肩を持つことと理解され非難されてしまう。適切な指摘がなされづらい状況によって、もっとも損をするのはウクライナである。

ロシアのウクライナ侵攻
総論:ロシアのウクライナ侵攻
・第1章:ウクライナ危機の起源
2章:ロシアのウクライナ侵攻とアジア
3章:ロシアへの経済制裁とその影響
4章:ウクライナ侵攻とロシア内政
第5章:ロシアの対ウクライナ戦争

INDEX

 本稿は、ロシアによるウクライナ侵攻の背景を、ロシアだけでなく、ウクライナにも注視して論ずるものである。まず、歴史的に形成された民族の単位に関する問題について、次に、現代の安全保障上の問題について解説する。最後に、今後の展望を述べるとともに、ウクライナを巡る認識のあり方――すなわち、ウクライナの問題点を指摘することが、即、ロシアの肩を持つことと理解されてしまう――の問題について触れる。ウクライナを助けたいのなら、同国に内在する問題点を直視することが必要と考える。

1.ウクライナ危機の歴史的背景

 ロシアの大統領ヴラジーミル・プーチンは、これまで発表された論文の中でも、2022224日にウクライナに対して行った、事実上の宣戦布告の中でも、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は、単一のナロードだと主張している。ナロードというロシア語は英語ではpeopleと言い換えられる。このように3民族を一体のものとする理解は、通常、ロシアの大国主義と受け止められている。まずは、こうした考え方が出てくる背景を説明し、戦争を始めたプーチン大統領たちが何を考えて単一のナロードだと主張しているのかについても述べる。

(1)キエフ・ルーシとその分裂

キエフ・ルーシの繁栄と衰退

 ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人に共通するのは次の3点である。第1に、3民族ともに東スラブ人であり、言語的に近い。第2に、10世紀から11世紀にかけて繁栄したキエフ・ルーシという共通の歴史的起源を有する。第3に、ビザンツ帝国からキリスト教を、より特定していえば正教を、キエフ・ルーシの時代に受容した。

 このキエフ・ルーシは、ヨーロッパが地中海の制海権を失っている間に河川貿易で繁栄したが、十字軍遠征を経て地中海の制海権がヨーロッパに戻ってくると、河川貿易は衰退し、キエフ・ルーシも衰えていくことになった。最終的には13世紀のモンゴルの侵入によってキエフ・ルーシの中心であったキエフは荒廃する。

 その後、モンゴルとの関係の濃淡によって、東西のルーシが別々の発展を遂げることとなった。モンゴルの影響を特に強く受けたのが東ルーシ、すなわち今日のロシアである。これに対して、影響が相対的に小さかったのが西ルーシ、すなわち今日のウクライナとベラルーシである。東ルーシにおいては、有力になったモスクワ公国が周辺を征服してロシアを建設していく。西ルーシでは、14世紀にモンゴルが後退した後、その空白をリトアニア大公国が埋めていった。リトアニア大公国は、今日の民族概念でいえば、リトアニア人とベラルーシ人の連合国家であったと大雑把には言うことができる。このリトアニア大公国は、最終的には今日のウクライナまで、黒海のすぐ近くまで拡大した。

ウクライナのポーランド化

 拡大する東西のルーシは16世紀に衝突した。これがリヴォニア戦争である。ロシアのイヴァン雷帝は、内陸国としてでは成し得ない繁栄を求め、海への出口を、バルト海への出口を求めてリトアニア大公国に戦いを挑んだ。この戦争でリトアニアは辛うじて勝利したものの、財政的にも破綻してしまい、ポーランドと合同することとなった。合同と言っても対等ではなく、ポーランドが優位に立ち、リトアニアはそれまで支配下に置いていたウクライナをポーランドに差し出した。

 ここでウクライナのポーランド化が起きる。従来のリトアニア大公国は、リトアニア人とルーシ人(今日で言えばベラルーシ人)の連合国家であり、その下では正教も保護されていた。つまり、リトアニア人はカトリック、ルーシ人は正教を信仰するというように、正教も保護されており、ルーシ人のアイデンティティーは守られていた。ところがウクライナがポーランドの支配下に移されると、急速にポーランド化が進む。ポーランド化とは、ラテン化、カトリック化のことである。

 この背景には16世紀当時の反宗教改革がある。ヨーロッパでは宗教改革が進み、プロテスタントにカトリックが攻められていたところ、カトリック側が巻き返そうと反宗教改革が起きた。正教の信徒たちが暮らしていたウクライナはカトリック勢力拡大の格好の対象であった。カトリックのポーランドの下で、ウクライナのエリートは次第にポーランド化し、カトリック化していくことになる。とは言え、庶民はそう簡単に改宗できないため、庶民向けには東方帰一教会(あるいはユニエイト教会、グレコカトリック教会とも呼ばれる)という折衷宗教が認められ広がっていく。折衷とは、つまり正教の典礼は維持し、その代わりローマ教皇の権威を認めるということである。このように、エリートはカトリックに、庶民は東方帰一教会に改宗させるという政策がかなり強制的に進められていった。

(2)ロシア帝国下のウクライナ

対ポーランド反乱からロシアの支配下へ

 こうしたポーランド支配に対し、17世紀にはボフダン・フメリニツキーを主導者としたコサックの大反乱が起きた。このコサックの反乱をモスクワ大公国は支援し、その結果、ポーランドはある程度押し出されることになり、ウクライナ中央部を北から南に貫通して黒海に注ぐドニエプル川の東側、すなわちドニエプル左岸はロシアの領土となった。この地はマラルーシ、すなわち小ロシアと呼ばれた。小ロシアという呼称はしばしば蔑称と理解されるが、決してそうではなく、小というのは中核という意味である。ギリシャにおいて本土を小ヘラスと呼び、ヘレニズム世界を大ヘラスと呼んでいたように、小という語は文明の中心を意味している。

 ウクライナは、ロシアと合同した後も、コサック自治をはじめとした特権を有していた。これは、対ポーランド、対オスマン帝国の最前線としてウクライナが極めて重要であったゆえである。しかし、18世紀後半のエカテリーナ2世の時代になると、ポーランドもオスマン帝国も後退したため、辺境としてのウクライナの重要性は失われていき、特権も廃止されていく。その後19世紀初頭に導入されたマラルーシ総督府も、1856年には廃止された。総督府の廃止が意味するのは、ウクライナがロシア帝国の内地と同様に取り扱われるようになったということである。かくしてドニエプル左岸は、帝国の内側に取り込まれた。

 このようにロシアの下に入ったドニエプル左岸に対し、ドニエブル右岸はまだしばらくはポーランド支配下にあり続けた。右岸がロシアに併合されたのは、18世紀末のポーランド分割によってである。ロシア、プロイセン、オーストリアは、共通の敵であるポーランドを分割し、この結果、ロシアはリトアニア、ベラルーシ、ドニエプル右岸を支配下に置いた。

ロシアの支配と東スラブ大家族イデオロギー

 ドニエプル右岸の支配に際し、ウクライナの庶民のアイデンティティー、農民のアイデンティティーが初めて論点化することになる。それは次のような事情による。そもそも右岸ウクライナはポーランドに長く支配されていたため、貴族やエリート階級は完全にポーランド化していた。言語も完全にポーランド語であり、宗教もエリートはほぼ完全にカトリック化していた。そこでロシア政府は、ポーランド分割で右岸ウクライナを併合した当初は、直接統治するのではなく、ポーランド人貴族に任せるという方針をとった。しかし、1830年にポーランド反乱が起き、ポーランド人貴族に支配を任せられないと判断すると、次第に介入を深めていった。

 ロシア政府は介入にあたり、民俗学の調査、フォークロア(伝統、風習)の収集などを行わせ、その結果、右岸ウクライナの農民・庶民は、2世紀以上に及ぶポーランド支配にもかかわらず、言語、習慣、宗教などの点で、東スラブ的な特徴を保っていることを発見した。こうした庶民のアイデンティティーがまさに統治に利用されることとなる。つまり、ウクライナの従来の支配階級はカトリックのポーランド人だが、ウクライナの農民は正教の信徒であり、われわれロシアと同じであるとして、ウクライナにおける支配階級と農民との対立を煽(あお)るという、今日的に言えばポピュリスト的な性格を帯びた政策がとられるようになった。

 右岸のウクライナ農民と支配階級を対立させる政策の中で、東スラブの3民族、すなわち大ロシア人、マラルーシ(小ロシア)人、ベラルーシ人は1つの家族であり、それらすべてがロシア人であるという言説が登場する。いわく、右岸ウクライナでは、ポーランド人やユダヤ人が経済的に優越し、何世紀にも渡って庶民を搾取してきた、その庶民はわれわれと同じロシア人である、われわれは同じロシア人である庶民を助けるのだ、という具合にポピュリスト的な主張がなされていく。つまり、東スラブの3民族は家族であり、皆ロシア人であるという考え方は、支配者たるポーランド人・ユダヤ人の搾取から、ロシア人を解放しなければならないというイデオロギーと結びついていた。このイデオロギーはスラブ派のものでもある。

 ウクライナ人エリートは、この東スラブの大きな家族論を基本的に受け入れた。受け入れたのみならず、「われわれ小ロシア人こそが本物のロシア人である」という考えにまで至った。小ロシア人から見れば、大ロシア人とは、ロシア帝国の内地に住み、ポーランド人ともユダヤ人ともほとんど接さず、彼らとの闘争を経験していない苦労知らずばかりである。これに対して小ロシア人たちは、数世紀にわたってポーランド人やユダヤ人と戦ってきた自分たちこそが真のロシア人である、と自負した。

 これは周辺民族主義である。すなわち、中心に住んでいる者たちは本当の戦い・苦しみを知らないのであって、辺境で戦う自分たちこそ当該民族の中心であり本家だと主張する考え方である。例えばウクライナ西部のウクライナ人は、しばしばこのような論理を用いて首都キーウ(キエフ)を批判し、キーウではなく辺境の自分たちこそがウクライナのアイデンティティーを守るために戦っていると主張する。

ウクライナ・アイデンティティーの登場

 やがてロシアの帝政が終わりに近づくと、東スラブ大家族イデオロギーに限界が訪れる。すなわち、ウクライナ人は大ロシア人とは違う、ウクライナ人と大ロシア人は、それぞれ異なる別個のアイデンティティーを持っている、との考え方が登場した。このような考え方はウクライナ主義と呼ばれるようになる。ウクライナ主義を確立するためには、それまでは単に会話言語と思われていた小ロシア語、つまりウクライナ語を文章語として確立していかなければならない。したがって、ウクライナ語を文章語として確立する運動も展開されていく。

 このウクライナ主義の運動を支持したのは、おおむね左派、すなわち左翼勢力や協同組合運動などである。また、右派に分類される、ロシア正教会の聖職者の一部からも支持された。それに対して、東スラブ人は1つの家族だという考え方は、支配層である地主たちや地方自治の指導層によって支持されていた。新しい対抗関係が発生したと言える。

 革命を起こしたボリシェヴィキは左派であり、当然、ウクライナ主義の考え方を取り入れた。十月革命後、旧支配層は一掃され、東スラブ3民族は家族だという考え方は、その支持者を失った。この結果、生き残ったのはウクライナ主義であり、これが共産党政権の下で政策化されていくことになる。

(3)ソ連時代の政策とその評価

民族アイデンティティーの客観性と一義性

 ソ連時代のウクライナの民族意識については別稿もあるため、そちらも参照されたい(松里 2022)。ソ連期には東スラブ人は1つのナロードであるという考え方は否定され、ロシア人はロシア人、ウクライナ人はウクライナ人、ベラルーシ人はベラルーシ人というように、それぞれ別個の民族とされ、ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国、ウクライナ・ソヴェト社会主義共和国、ベラルーシ・ソヴェト社会主義共和国、と民族名を冠された個別の共和国をソ連邦内で持つこととなった。このような形で共和国を持った民族は東スラブの3民族だけではなく、ソ連邦内には民族名を冠された15のソヴェト社会主義共和国が形成されていく。

 こうしたソ連の連邦制の特徴は、民族領域連邦制である。これは、以下のような考え方に基づいている。すなわち、ある民族は、文化的な自治ではなく、領域的な自治を行わなければならない。領域的な自治を行うためには、当然、自らの領域と自治政府を持たなければならない。領域と自治政府を持つためには、住民のアイデンティティーは曖昧模糊(もこ)としたものであってはならず、住民は公式に確定された民族籍を持つ必要がある。つまり、ウクライナ人ならウクライナ人としてのアイデンティティーを持ち、ウクライナの領域で、ウクライナ自治政府を構成する。ここで重要なのは、どの民族に帰属するかという問題を、主観的に決めるのではなく、客観的かつ一義的に確定させるという点である。実際に、ソ連において、個人の民族的な帰属先は民族籍として客観的に決定されていく。こうした確定の在り方は、後に中国共産党によって受容され、民族識別工作と呼ばれることとなった。

 民族アイデンティティーを客観的に確定させようとした結果、帝政期と比較すると、民族のカテゴリーがかなり変化した。帝政期において人口調査などを行う際には、ロシア人というカテゴリーの下に大ロシア人、小ロシア人、白ロシア人という区分があったが、ソ連時代には3つの下位区分が切り離され、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人がそれぞれ別の民族とされた。グルジア人については、対照的に、帝政期にはグルジア人、メグレル人、スヴァン人という3つのカテゴリーがあったところ、ソ連期には皆グルジア人に統合されることになった。こうした例は挙げていけば切りがない。いずれにせよ、帝政期とはかなり異なった形で客観的に民族カテゴリーが定められていった。

 中国の例で言えば、中華民国時代には五族共和と言われ、漢族、満州族、モンゴル、ムスリム、チベット人という5つのカテゴリーがあったが、今日の中華人民共和国には56の民族があることになっている。増えた51の集団は隠されていたのではなく、社会主義時代になってから中国共産党と政府によって新しく定義され、育成されたものである。

客観化・一義化の問題点

 民族のカテゴリーを客観的に決め、公認されたら民族ごとの領域を持ち、自治政府を持つことができるという考え方は、ある時期までは非常に進歩的な政策とみなされ、社会主義的な民族政策として肯定的に評価されてきた。しかしながら、近年ではロシアでも中国でも、この政策の評判は非常に悪く、ソ連解体は政策の誤りを象徴すると考えられている。すなわち、ソ連は、本来は文化的な集団であるエスニック集団を人工的に民族と位置づけ、領域を与え、自治政府を与えたために、かえって民族というカテゴリーを政治化してしまい、この政治化によってソ連は崩壊に導かれたと理解されている。さらに言えば、旧ソ連諸国も今なお民族主義に苦しめられている。

 当該政策のもっとも重要な問題点は、民族識別を実施することによって、アイデンティティーの重層性が否定されたことである。ウクライナについて言えば、ポーランドの支配下においては、「生まれはウクライナ人だが、市民としてはポーランド人(Gente Ruthenus, natione Polonus)」と言われ、ロシア帝国においても、生まれは小ロシア人だが政治的市民としてはロシア人であると考えられていた。ところが、ボリシェヴィキを率いたレーニンの民族政策により、アイデンティティーの重層性は否定された。すなわち、ロシア人であるならばウクライナ人ではなく、ウクライナ人であるならばロシア人ではない、ということになった。重層性を否定しつつ人工的にばらばらの民族を作っていったことは、今日のトラブルの大きな原因と言っても過言ではない。

 確かに、一般的に民族とは近代になって作られたものであり、ロシア人やウクライナ人だけが人工的に作られたというわけではない。しかしながら、社会主義的な多民族国家の場合、民族領域連邦制と民族識別工作という政策によって、非常に急速に民族を作ったため、その人工性が極めて目立つという結果になった。しかも、ソ連の場合、それらの民族に連邦構成共和国などといった疑似国家を持たせたため、より分裂しやすくなったと考えられる。

 分裂を防ぐべく、個別の民族を超えたアイデンティティー形成の努力もなされた。ソヴェツキー・ナロード(ソヴェト人民)がそのアイデンティティーであり、エスニック・ナショナリズムを越えたシビック・ナショナリズムの涵養が意識されていたということを意味する。実際に、個別の民族を超えたソヴェト人民としての意識を持てるよう、ソ連政府は努力していた。とは言え、民族領域連邦制は個々の民族の分離傾向を刺激し、個別の民族であるという意識を強く持たせる政策であり、1つの国家を維持する向きとは逆のベクトルに力を加えるものと言える。

プーチンは何に怒っているのか

 プーチンをはじめとする右派の論客たちは、しばしば「ウクライナ国家を作ったのはレーニンである」と述べる。この非難には、彼らが持つ2つの認識が含まれている。第1に、いわば民族識別工作で東スラブの3民族を人工的に分断したということであり、第2に、ウクライナ人の民族分布よりも広い領域をウクライナ・ソヴェト社会主義共和国に与えたというものである。

 上に述べたように、ソ連は急速かつ人工的に民族を作り上げ、諸民族に自治の単位を与えた。そのことがソ連に分裂のポテンシャルを内包させ、実際にソ連は分裂することになった。こうした事態が、ロシア帝国やソ連のような巨大国家の方が良かったと考えるプーチンのような人々を怒らせている。

 このようにソ連自体の民族カテゴリーを拒絶するプーチンたちが考えるロシア人の範囲は、ソ連時代のそれよりも拡大している。彼らは、彼らの考える「ロシア人」を捉える際に、言語を基準としていると考えられる。すなわち、彼らにとってロシア人とはロシア語話者を指す。ロシア語を話す者をロシア人とみなすことは、ソ連時代に「ロシア語話者のウクライナ人」という概念が存在していたこととは鋭い対立を見せる。プーチンたちは、同じ言語を話す者は同胞だと考え、ロシア語を話す同胞を軍事的な手段も含めて助けるのは当然だ、という発想で行動していると考えられる。

2.安全保障上の動機

 これまで歴史的背景について説明してきた。歴史は戦争の正当性を説明する要因ではあっても、戦争目的そのものではない。ロシア指導部の戦争目的に関する言い回しは微妙に変化してきた。一貫しているのはウクライナのNATO加盟阻止である。これに対し、開戦当初にはウクライナのヴォロディムィル・ゼレンシキー政権を打倒すると公然と述べていたが、次第にそれは述べられなくなり、表に出てきたのはクリミアとドンバスにかかわる領土問題の解決である。ここでは、まずNATOへのウクライナ加盟阻止について述べる。次いで係争地について論ずるが、クリミアについては既に別に論じたことがあるため(松里2018a,2018b)、東部のドンバス地方の中でも研究対象としてきたドネツク州について述べる。

(1)ウクライナのNATO加盟阻止

文書による確約

 202112月、プーチン大統領はウクライナをNATOに加盟させないことを文書で確約せよ、とアメリカに対して要求した。唐突な印象を与えるこの文書による確約要求には背景がある。話は1990年にさかのぼる。当時、東西ドイツを統一するにあたり、ソ連の合意を取り付ける必要があり、交渉が行われていた。ロシア側の主張によると、このときアメリカのベーカー国務長官が、東西ドイツが統一してもNATOは一切東方に拡大しないと約束した。この約束は口約束であって文書には残っていないけれども、約束には違いないというのがロシア側の見解である。しかし、約束にもかかわらず、NATOは公然と非常に速いスピードで拡大していった。したがって、口約束では安心できないのであり、ウクライナを加盟させないという確約を文書でよこせ、ということになる。

 ウクライナを加盟させないことを文書で確約せよという要求は、結局のところ拒否され、ロシアはこれを開戦理由の1つとした。現時点では、文書による確約拒否のもっと前からロシアが戦争に打って出ることを決めていたことが明らかになっており、文書による確約要求は、戦争を始めるための口実づくりにすぎなかったと理解されている。しかし、このことは、ロシアがそのような約束を欲していなかったことを意味するわけではない。

NATO拡大に対するロシアの限界線

 現在NATOが掲げている門戸開放原則は、1997年のNATOマドリード・サミットで採用されたものである。冷戦下において、オーストリアが自国の意思によってではなく、国際条約(1955年)によってNATOに入れなかったこととは対照的である。このことは、冷戦当時は考えられていた地政学バランスが、現在では無謀にも考慮されていないことを意味する。現加盟国が賛成するならどの国でも望めば加盟させるという門戸開放の方針は、軍事同盟としては破格の大雑把なものであり、NATOの「向かうところ敵なし」という時代の精神を反映しているのであって、NATO自身が主張するような国際法上の主権尊重とは関係がないとみるべきである。

 冷戦後の1994年、「平和のためのパートナーシップ」で加盟希望国との調整が制度化され、1999年にポーランド、ハンガリー、チェコが加盟し、2004年には東欧7カ国が加盟を果たした。この時点で、バルト3国という旧ソ連諸国がNATO入りし、また黒海の西側と南側をNATO諸国が覆うこととなった。黒海に面していてNATOに加盟していないのは、ウクライナ、グルジア(ジョージア)、そしてロシアである。

 ロシアがこれ以上の拡大は認められないとの強い態度を示したのは、2008年春に開かれたNATOのブカレスト・サミットにおいてである。アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領は、このサミットでウクライナとグルジアを加盟候補国にしようと意図していたが、ロシアの反発に配慮するフランス、ドイツなどの反対で見送られ、共同宣言には将来加盟候補国になるという文言が盛り込まれるにとどまった。ウクライナおよびグルジアがNATO入りすることへのロシアの反対は非常に強硬なものであった。その後に起きた2008年夏の南オセチアをめぐる戦争、2014年のクリミア併合が明らかにしたのは、ロシア指導部のグルジアとウクライナに対する執着が、旧ソ連のバルト諸国や黒海沿岸のルーマニア、ブルガリアなどに対するよりも比較にならないほどに強いということであった。結果として、NATOの拡大は鈍化した。

 2018年以降、列強による超音速ミサイルの開発が本格化すると、プーチン政権のNATO拡大に対するアレルギーはいっそう酷くなった。超音速ミサイル開発に先鞭をつけたのはロシアであるが、こうしたミサイルをNATO諸国が開発し、仮に加盟国となったウクライナのハルキウ近辺に発射基地を作ったとしたらどうなるか、とロシアは警戒している。超音速ミサイルは、モスクワまで45分で届くという。軍事専門家は、現時点でロシアが有している超音速ミサイルの技術的優位は、5年ほどで覆されると予想している。能力からして、ロシアに作れるものがアメリカに作れないわけがないからである。ロシアとしては、技術的な優位があるうちにNATOの拡大をこれ以上は認めないような文書の確約が欲しい、条約上の確約が欲しいという願望は確かにあったと考えられる。これ以上のNATO拡大に対するロシアの危機感は見せ掛けではない。

選挙での人気取りに使われる軍事同盟

 このようにNATO拡大に対するロシアの危機感が高まり、拡大に伴う危険が増す一方、NATO加盟問題は選挙における支持動員の手段とされてきた。そもそも、アメリカのブッシュ大統領が2008年のNATOのブカレスト・サミットにウクライナおよびグルジア加盟問題を持ち出したのは、同年に予定されていた大統領選挙のためであったろう。イラク戦争ゆえに支持を落としていたブッシュ大統領には、外交カードを使うことによって、同じ共和党のジョン・マケイン大統領候補の人気を上げたいとの思惑があったと考えられる。ウクライナでは、ヴィクトル・ユシチェンコ政権が、オレンジ革命(2004年)以後に経済が非常に悪化した際に、歴史問題等のイデオロギー的な争点で支持を獲得しようとし、その一環としてNATO加盟問題を利用した。グルジアのミヘイル・サアカシヴィリ政権も、バラ革命(2003年)の当時は人気があったが、2007年にトビリシでのデモを力で弾圧して人気を落とし、翌2008年夏にNATO加盟への展望をにらんで冒険主義的な南オセチア政策を打ち出してロシアと戦争になった。近年では、2019年にウクライナ憲法が改正され、憲法上の中立主義が放棄されて、代わりにNATO加盟が書き込まれた。これも、ウクライナでの大統領選挙にあたり、現職のペトロ・ポロシェンコ大統領が、ゼレンシキー候補(現大統領)に追い上げられたため、何とか挽回したいとの願望からNATO問題を持ち出した結果である。

 このように、いずれの国でも、国内的な人気取りのために、選挙に勝つために、NATO加盟という軍事的な問題を使っている。安全保障の問題は、とりわけ危機が高まっている状況においては、慎重な取り扱いを必要とするはずだが、実際には危機に反比例するかのように国内的なポピュリズムのアピール材料となっている。これは非常に危険な傾向であり、発言には二重三重に気をつけねばならないと考える。

(2)ドンバスの分離

ユーロマイダン革命と暴力

 クリミアがロシアに併合され、ドンバス地方で分離の動きが起き、ドネツク州およびルハンスク州のそれぞれ一部にドネツク人民共和国およびルハンスク人民共和国が作られたのは2014年のことであり、これらの事件にはユーロマイダン革命が強くかかわっている。今日、これらの領土について論じるには、まず近い過去のいきさつに触れておく必要がある。

 ユーロマイダン革命は、201311月、EUとウクライナの連合協定調印を、その直前になって当時のウクライナ大統領であるヤヌコヴィチが取りやめたことに端を発している。腐敗したヤヌコヴィチ政権下での閉塞状況を打破する一助として、EUとの関係強化に期待する向きもあり、調印延期はヤヌコヴィチ大統領への抗議運動に即つながった。そして瞬く間に暴力化していった。

 抗議運動が開始されてから、数々の暴力事件が起きた。例えば、2014220日には、抗議運動の中心地であったキーウ(キエフ)の独立広場周辺で狙撃による虐殺事件が起き、数十名以上が犠牲となった。この事件はヤヌコヴィチ大統領が国外逃亡するきっかけとなった。抗議運動側にいた勢力が味方を後ろから撃ったという自作自演説が根強い。また、オデサでは反マイダン派の人々が労働組合会館前で座り込みをしていたところ、マイダン派とサッカーファンに襲われて建物内に逃げ込んだ。マイダン派らは建物内に火炎瓶を投げ込み、火炎瓶は反マイダン派が持ち込んでいた灯油に引火して建物は火災に見舞われ、40名以上が犠牲となった。消防隊が駆けつけるのが非常に遅く、作為が疑われている。マリウポリでも、市民と国民親衛隊(内務省軍)および警察とが衝突して死者が出た。

 こうした暴力事件で特徴的なのは、革命派(マイダン派)が事件の様子を録画し、自らソーシャルメディアに盛んに公開していたことである。当人たちに罪悪感はない。むしろ良いことをしているつもりだからこそ、凄惨な動画を撮って公開に及んでいたというべきである。かくして、ソーシャルメディアに暴力行為とその結果としての死体が数多く映し出されることになった。

 これらのグロテスクな映像は、クリミアおよびドンバスの人々に、「明日は自分たちがこの暴力の標的になる」と思わせた。暴力から逃げなければならないという切迫した恐怖感が、ウクライナからの離脱を彼らに決意させたと考えられる。ところが、西側のユーロマイダン革命の理解からは、暴力と恐怖の要素が抜け落ちている。革命の混乱に乗じてクリミアおよびドンバスの親露派が分離運動を行ったとの解釈がよく見られるが、クリミアおよびドンバスの住民たちは、民族主義者の暴力を目の当たりにし、ともかくそこから逃げようとしたというべきである。焦点は暴力にあり、もはや、親露か親欧米かという論点は吹き飛んでいた。しかし、ドンバスでは内戦が起き、暴力はさらに拡大した。ウクライナ政府側は反テロ作戦と銘打って戦い、分離勢力はロシアの支援を受けることとなった。

「ネオナチ」と暴力の継続

 「非ナチ化」は、プーチン大統領が挙げた戦争目的の1つである。ウクライナにおけるネオナチの存在については、ロシア側のプロパガンダとも言われ、ネオナチが実際にいるとしても他の東欧諸国等と同じ程度で、大した勢力ではないとも言われる。ウクライナのネオナチがいかなるものかについて、その定義も含め、私自身は直接的には研究していないため、文献を挙げるにとどめ(清 2022; Ishchenko 2018)、ここではどのような社会現象が問題視され、ネオナチを連想させているかについて述べることとする。

 旧共産圏でネオナチとして問題視される現象は、3つに分類することができる。第1に、第2次世界大戦中の対独協力者が復権される傾向がみられることである。ウクライナ解放軍が称賛され、協力者とされるステパン・バンデラの名が通りの名にされるなどの例がある。こうした事態に対して、ロシア側は、対独協力者が顕彰されても西側諸国が批判しないと苛立ち、西側はネオナチを容認しているのであって、彼らの言う民主主義はただの建前にすぎない、という形で議論を立てる。第2に、ユーロマイダン革命以後、右翼活動家の暴力事件が目立っている。ウクライナの野党系のニュース番組で、活動家が女性キャスターに殴りかかったり、物を投げつけたりといった事態がテレビカメラの前で起きている。しかも、こういった暴力行為に対する司法的な取り締まりはない。第3に戦争犯罪に対して、ネオナチ、ファシズムといった性格付けがなされる。これはウクライナに限った話ではなく、例えば南オセチアにおけるグルジア軍の残酷な行動がネオナチと認識されている。

 ネオナチと呼ぶかどうかはともかく、右翼活動家は増えている。彼らを生み出したのは、反テロ作戦と呼ばれるドンバス戦争である。彼らを反テロ作戦の参加者として社会的に敬い、多少の逸脱行動は見逃す文化が発生した。戦場にいた彼らを通じて、日常生活の場にも暴力が持ち込まれている。現在、ロシアのウクライナ侵攻によって、暴力はさらに拡大している。この戦争は、これまでのドンバス戦争とは桁違いの規模で右翼活動家を生み出すと予想される。

地域間の差異

 ウクライナからの離脱を求めたクリミアおよびドンバスと、分離運動から途中で脱落した南東6州(ハルキウ、ドニプロペトロウシク、ザポリッジャ、ミコライフ、ヘルソン、オデサ)とでは、住民意識に顕著な違いがあるとの指摘が先行研究でなされている。たとえば、20144月の社会学調査によれば、「自分の州がウクライナから離脱してロシアに移った方がいいか」という質問に対して、ドネツク州・ルハンシク州では約30%が「はい」と答えている。このように答えたのは、ハルキウ州では17%、オデサ州ではわずか7%である。「ロシアがウクライナに軍事介入した方がよいか」という、かなり過激な問いに対しては、ドネツク州・ルハンシク州では約20%が「はい」と答えたのに対し、ハルキウ州では約15%が、オデサ州では6%が「はい」と答えている(Toal 2017)。

 興味深いことに、ドンバスの分離した部分と、ウクライナの支配下に残った部分とでは、2022年に至っても、つまり分裂から8年経っても意識が似通っている。軍事的な境界線で分けられても、ドンバスはドンバスということである。

 クリミアとドンバスにも違いがある。ロシアに併合されたクリミアは伝統的に親ロシア的であり、ウクライナ中央に対して遠心的リージョナリズムが発揮されやすい土地であったが、他方、ドンバスでは、中央に文句はあるが決して分離したがっているわけではないという求心的なリージョナリズムが作動していた。中でもドネツク州は、ソ連時代にはエリート工業地域であり、連邦解体直後においては隣接するロシアのロストフ州よりも発展していた。もちろん、離脱の主たる原因は既述のとおり暴力であるが、ウクライナ政治の中心にあったドネツク州が分離運動の中心になった経過は、もう少し細かく見る必要がある。

ドンバス、とりわけドネツク

 1999年の大統領選挙で苦戦の末に再選を果たしたクチマ大統領は、ウクライナ西部の民族主義勢力との競争にさらされることになった。ここで力を発揮することになったのが、ドネツク州でもともとは地域政党として発足した地域党である。ドネツク州のエリートは、石炭・冶金・機械という垂直的産業構造に基づく強い集票力を誇り、強いリージョナリズムゆえに民族主義イデオロギーにも左派にも対抗できた。ドネツクのエリートたちによって地域党は発展し、同党のヤヌコヴィチはクチマの後継者とみなされるようになった。ヤヌコヴィチはオレンジ革命で一敗地にまみれた後、2010年の大統領選挙では勝利を収めた。しかし、政権獲得後、地域党は単なる恩顧政党となって活力を失っていく。

 ユーロマイダン革命の際には、地域党は、マイダン派と反マイダン派の板挟みとなって身動きが取れなくなった。さらに、ヤヌコヴィチの逃亡によって地域党は大きな打撃を被り、州の党組織は麻ひしていった。こうした中で2014年春にドネツク州庁舎を占拠したのは反マイダン急進派である。彼らはウクライナからの分離とロシアへの併合という要求を掲げ、住民投票を準備し始めた。彼らは従来のエリートではなく、むしろエリートを排除して、下から社会革命を遂行しているつもりであった。

 プーチン政権はクリミアを併合したが、ドンバスはウクライナに残しておいた方が良いと判断していたため、当初はドンバスでの分離運動に冷淡であった。しかし内戦が始まり、さらには民間航空機が撃墜されると、さすがに放置できなくなった。

 プーチン政権の対ドンバス政策は次のようなものであった。第1に、ドンバスおよびルガンスクの両人民共和国が滅びない程度に援助する。第2に、両共和国をロシアに併合せず、ウクライナを連邦化することで、ウクライナに復帰してもらう。第3に、両共和国から急進派を排除して社会革命的な要素を取り除く。ドンバスには、ウクライナの内側からNATO加盟を阻止してほしいというのがプーチン政権の期待であった。

 この期待を実現するはずだったのが、20152月に調印された第2ミンスク合意である。この合意はドンバスにウクライナ内で「特別な地位」を与えるとの内容を含んでいた。しかし、「特別な地位」を持つドンバスのウクライナ復帰は実現しなかった。ゼレンシキーが勝利した2019年大統領選挙に前後して、ロシアは、ドンバスの住民にロシア国籍を付与するようになった。これはウクライナの内側からNATO加盟を阻止しようとする政策を、プーチン政権が放棄し始めたことを意味しており、危険な兆候であった。さらに、201912月にパリで両大統領が初めて(今のところ唯一)顔を合わせた際、ゼレンシキー大統領が、議会選挙でも大勝した後だったにもかかわらず、第2ミンスク合意を履行する意図がないとプーチン大統領に伝え、これがロシアに平和的解決を諦めさせたきっかけであったと『Wall Street Journal』に202241日付で報道されている。

3.今後の展望

(1)戦争の落としどころ

和平交渉の行方

 ロシアとウクライナは、開戦後の2月末から和平交渉を行ってきた。3月末のイスタンブールでの会談では、ウクライナ憲法を改正して非同盟中立条項を復活させる点では、両国間で大方の同意が達成された。そもそもウクライナのNATO加盟は現実的ではなかったため、妥協してもウクライナが失うものはない。他方、ロシアが要求するクリミア領有と、ドンバスの両人民共和国の独立承認は、イスタンブール交渉でも深刻な争点となった。

 ただし、クリミアが将来ウクライナに戻ると信じるウクライナ人はあまりおらず、ドンバスが実際に戻れば、文字通り爆弾を抱え込むようなものである。ゆえに時間をかけて交渉すれば、領土問題についてもある程度の接近は可能だったと考える。現実問題として、マリウポリでは、人民共和国によって、地元企業アゾフマシュのトップが市長としてすでに任命されており、当該市長のもとには、避難した市民から、いつマリウポリに帰れるのか、早く帰りたいとの問い合わせが多数寄せられているという。

 しかし、領土問題でウクライナが妥協することについては、ウクライナを支援する西側諸国からの抵抗が大きいだろう。力による一方的な国境線の変更を認める余地は、西側諸国には極めて小さい。

 さらに、交渉を難しくしたのは、キーウ(キエフ)近郊のブチャなどで発生した虐殺である。202243日にこの事件が表面化し、それまでの交渉はすべて白紙に戻されてしまったされてしまったため、当面はブチャなどでの虐殺の真相解明を求める必要がある。

どう解決するか

 私自身の考えでは、例えば国連管理の下で、クリミアとドンバスにおいて住民投票をもう一度行い、その結果、分離という意思が示されたなら、分離させた方が良い。何よりも重要なのは正常化である。外交関係が通常どおり持たれ、行き来が正常にできるような状態を作り出すことが最優先されるべきである。

(2)ウクライナへの関心

恒常的な関心の欠如

 日本では、何か問題が起きないと、ウクライナに関心が向けられない。その構造を何とかしなければならない。ウクライナに関する基礎知識が日本社会にはなさすぎる。もっと日常的にウクライナに対して関心を持ってもらいたい。トラブルが起きた時だけ関心を持った場合、その理解は歪みがちであるため、善意から助言したり援助したりしたつもりでも、かえって相手の足を引っ張ってしまうことになってしまう。

 現代は、YouTube等で世界中のニュースを見ることができる時代である。可能な限り、せめて英語で発信されているものについては、さまざまな媒体のニュースを見たほうがよい。もちろん普段から見ておくべきである。多様なオルタナティブな言論になるべく接するのがよい。率直に言えば、日本のメディアは、ウクライナ側の発表やCNN、ロイター、BBCのような西側の支配的メディアの言い分をそのまま流すだけなので、市民としては、Foxニュースなどでときどき出るオルタナティブな見解、インドなど中立国の英語メディアも参照した方が良い。ましてや専門家ならば、ロシアの体制側、反体制側(Медуза[メドゥーサ]など)、ウクライナの体制側、反体制側(strana.uaなど)の主な報道をすべてフォローするのが望ましい。残念ながら専門家でもそこまでいかず、英語化された一方的な報道を、そのまま信じ込んでいる場合もある。ちなみに、戦時下で、ロシアでもウクライナでも反体制メディアはほとんど弾圧されてしまったので、逆に言えば、数少ない生き残り組をカバーするのは容易になった。

認識のあり方

 現在起きている戦争はロシアが仕掛けたものであるため、解説を加える専門家がロシアを専門としている場合が多い。ロシアとの関係でウクライナを論じることになるのも仕方ない面がある。しかし、ウクライナはウクライナ自体であって、ロシアの従属変数ではない。ウクライナをロシアとの関係で見るのではなく、ウクライナそのものを観察する必要がある。

 例えば、ユーロマイダン革命の最中に起きた暴力事件は、司法的な解決を見ていない。こうした問題について検証しようとしたり、批判的なことを述べたりすると、「プーチンを擁護するのか」、「ロシアの利益になるではないか」と難じられる。ウクライナをロシアとの関係でしか考えられないと、ウクライナにある問題点を指摘することが、即、ロシアの肩を持つことと理解されてしまう。これは大変に有害な現象である。適切な指摘がなされづらい状況によって、実のところ、ウクライナがもっとも損をしている。

編集:河本和子 NIRA総合研究開発機構上席研究員/一橋大学経済研究所ロシア研究センター専属研究員

参考文献


清義明(2022)「ウクライナには『ネオナチ』という象がいる―プーチンの『非ナチ化』プロパガンダのなかの実像」、『論座』3月23日.
松里公孝(2018a)「ウクライナとクリミア――ロシアによる併合に至る前史と底流」『ウクライナを知るための65章』明石書店.
松里公孝(2018b)「ユーロマイダン革命とクリミア――内部から見たクリミア併合の真相」『ウクライナを知るための65章』明石書店.
松里公孝(2022)「未完の国民、コンテスタブルな国家――ロシア・ウクライナ戦争の背景」『世界』957号(臨時増刊).
Ishchenko, Volodymyr (2018) The Unique Extra-parliamentary Power of Ukrainian Radical Nationalists is a Threat to the Political Regime and Minorities,” The Foreign Policy Centre, July 18.
Toal, Gerard (2017) Near Abroad: Putin, the West, and the Contest over Ukraine and the Caucasus, Oxford University Press.

引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)松里公孝(2022)「ウクライナ危機の起源―歴史、安全保障、地域の特性―」河本和子編『ロシアのウクライナ侵攻』NIRA総合研究開発機構

©公益財団法人NIRA総合研究開発機構

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