中溝和弥
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授

概要

 台頭するグローバル・サウスの代表格であるインドは、日増しにその存在感を高めている。2023年には人口が世界第1位、国別GDPでは世界第5位となり、2060年まで続く人口増加が、更なる経済成長を導くことが予測されている。そのような「世界最大の民主主義国」インドは、国際社会の中で大国と並び発言力を強める一方、国内では近年、民主主義の危機、すなわち権威主義化が指摘される。10年近くに及ぶモーディー政権下のインドで、一体何が起こっているのか。
 1947年にイギリスから独立して以降、インドはいわゆる途上国のなかでは例外的に民主制を維持し続けた。国家原則として民主主義、社会主義、世俗主義を掲げ、宗教の違いに拘わらず、インドに生まれた者がインド人として共に生きていく国家を目指した。宗教、カースト、言語など世界でも稀に見る多様性を誇るインドで、民主主義は「多様性のなかの統一」を実現する上で、重要な制度として機能した。
 その民主主義が、現在、大きく揺らいでいる。2014年に政権を掌握したナレーンドラ・モーディー首相は、ヒンドゥー至上主義の制度化を進め、宗教的少数派であるムスリムを、暴力的・制度的に排除しようとしている。本章においては、まずモーディー政治の特徴を把握した上で、これが出現するに至った政治的経緯を説明する。その上でモーディー首相の権威主義革命が世界政治に影響を及ぼし始めている点を指摘する。これらを踏まえた上で、権威主義革命に抗う手立てとして、グローバルな市民社会のネットワークの重要性を指摘する。

アジアの「民主主義」
・第1章インド―権威主義革命と「世界最大の民主主義国」の行方―
第2章シンガポール―シンガポール政治の変容と将来:緩やかに進む民主化への道―
第3章パキスタン―ポピュリスト政党後の政党連合政権、軍部の影響力―
第4章フィリピン―グローバル化とフィリピンの政治変動―
第5章タイ―タイの今とこれから―
・第6章インドネシア(近日公開予定)
・第7章ミャンマー(近日公開予定)
・第8章ベトナム(近日公開予定)
・総論(近日公開予定)

INDEX

はじめに

 近年、目覚ましい成長を遂げるグローバル・サウスの中で、中心的な役割を担う国の1つがインドである。世界第1位の人口を誇るインドは、2027年にはGDPが日本を抜き、世界第3位になるとも予測されている。国際政治においても、ウクライナ戦争を巡り欧米各国とロシアとの対立が深まるなか、2023年にインドで開催されたG20サミットで自国の主張を共同宣言とすることに成功するなど、インドの存在感は高まりつつある(中溝(2023b))。このように世界の関心を集める「世界最大の民主主義国」のインドで、今、民主主義の危機が進行している。果たして、インドで何が起こっているのか。

 本章では、独立後、民主主義国家として歩み始めたインドの政党システムを4つの時期に分け、現在に至るインド政党政治の展開を俯瞰し、現在まで10年近くにわたって政権を掌握するモーディー政治の特徴を把握する。次にヒンドゥー至上主義を支える民族義勇団について説明した後、独立時には異端とされてきたヒンドゥー至上主義が、インド政治のなかで台頭してきた政治過程を説明する。要すれば、カースト・宗教アイデンティティが政治争点化する中で起こった1990年代の民主化が、その反転としてのヒンドゥー至上主義の台頭を招くこととなった。その上で、モーディー政権による権威主義革命が、日本、そして世界に及ぼす影響について示唆する。最後に、進行する権威主義革命に、いかに抗うかを検討する。

1.主要政党と野党、その動き

 1947年8月15日、インドは独立した。英領インドがインドとパキスタンに分離された形での独立であった。非暴力主義に基づきインド独立運動を指導したM.K.ガーンディーは、「この独立は私が望んだ独立ではない」と独立記念式典への出席を拒み、前年からインド全土で吹き荒れていた宗教暴動を鎮めるために、暴動が収まらないカルカッタへ向かった。カルカッタではガーンディーの努力により奇跡的に暴動が収まったものの、他の地域では暴動は収まらず、暴動を鎮めるために滞在したデリーで、ガーンディーは暗殺される。独立から半年も経たないうちに起こったこの悲劇は、独立インドの行く末に暗い影を投げかけた。暗殺犯ゴードセーは、ヒンドゥー至上主義団体である民族義勇団(Rashtriya Swayamsevak Sangh)に所属した過去があり、このため民族義勇団は禁止団体に指定された。指定解除後にその政治部門として設立されたのが、現在のインド人民党(Bharatiya Janata Party、以下BJP)の前身であるインド大衆連盟(Bharatiya Jana Sangh)である。結成当初は「ガーンディーを暗殺した党」としてタブー視され、勢力を伸ばせなかったものの、それが現在、単独過半数を有する政権党として、インド政治を牛耳るまでに成長した。本節においては、独立後の政党システムの展開を簡潔に踏まえた後、現在政権を率いるナレーンドラ・モーディー政治の特徴を解説する。

インド政党政治の展開

 1947年のインド独立以降の政党システムは、表1のように4つの時期に分けることができる(Nakamizo(2020))。

表1 政権年表

(出典)筆者作成

 第1期目は、1947年から1967年までの「会議派システム」期と呼ばれるもので、中央・州両レベルにおいて、インド国民会議派(以下、会議派)による一党優位体制が成立した時代である。会議派が圧倒的に優勢であった会議派システムが徐々に州のレベルから壊れ始め、1967年から1989年には次の「会議派-野党システム」期に移行した。これは一党優位体制の衰退過程である反面、非会議派政党が成長した時代である。中央レベルにおいては、1977年下院議員選挙で、非会議派政党連合であるジャナター党が初めて会議派を破ることに成功した。

 第3期目は、1989年から2014年まで続いた「競合的多党制」期で、会議派による一党優位体制崩壊後、数多くのアイデンティティ政党が台頭した時代である。特定のカーストないし宗教を支持基盤とするカースト政党、宗教政党、そして各州を基盤とする地方政党が台頭した。そして、最後に2014年から現在に至るまでが「BJPシステム」期で、BJPが単独過半数を握り連立政権を主導する政党システムである。

 「世界最大の民主主義国」を自負するインドだが、現在のモーディー政権下で権威主義化が着実に進行している。会議派政権下でも時のインディラ・ガーンディー政権によって非常事態体制という権威主義的統治が行われた時期があり、インド民主主義を蹂躙する行為として厳しく糾弾された。その結果、非常事態体制終了直後の1977年総選挙でインディラ政権が敗北し、先述のように非会議派政党連合のジャナター党が政権を掌握したため、非常事態体制が続くことはなかった。しかし、モーディー政権の場合、非常事態体制のように開始が宣言されることなく、いわばなし崩し的に権威主義化が進行していることから、筆者は「静かな権威主義革命」と名付けた(中溝(2023b))。民主主義指標の作成で世界的に知られるV-Dem研究所も、2020年にインドは選挙権威主義(Electoral Autocracy)へ移行したと報告している(注1)

モーディー政治の特徴:「服従の政治」

 筆者はモーディー政治を「服従の政治」と捉えている。その含意は、国民に服従を命じ、従えば褒美を与え、逆らえば罰する政治である。「服従の政治」は次の3つの柱から構成されている(図2)(Nakamizo(2021)、中溝(2023a))。

図2 「服従の政治」の概念図

(出典)筆者作成

 第1の柱は、新自由主義的な経済政策によって経済成長を実現し、その恩恵を配分する政策である。モーディー首相が政治の表舞台に登場したのは、2001年にインド西部のグジャラート州首相に任命されて以降のことである。2002年グジャラート大虐殺によってヒンドゥー教徒の固い支持を集めて同年12月の州議会選挙で圧勝した後、政策の重点をムスリムの弾圧から新自由主義的な経済政策にシフトする。インドは2000年代以降、とりわけ会議派が主導した統一進歩連合政権下で時に10%を超える経済成長率を達成するが、グジャラート州は全インド平均を超える経済成長を実現した。BJPの首相候補として2014年総選挙を戦った際には、グジャラート州の実績を「グジャラート・モデル」として前面に打ち出し、「雇用なき成長」に直面していた有権者の期待を集めて勝利した(中溝(2015b))。

 第2の柱が、ヒンドゥー至上主義の新戦略である。2014年に政権を掌握するまで、ヒンドゥー至上主義者は、大規模な宗教暴動を引き起こすことによって宗教間の分断を強化し、これにより多数派であるヒンドゥー教徒の支持を固め勢力を拡大してきた。これに対し、2014年以降は、自警団によるリンチ事件など小規模な暴力を広汎に引き起こすことによってムスリムを迫害する方向に転じた(Nakamizo(2023))。

 新戦略採用の契機となったのが、モーディー首相自身の関与が長年にわたって争われている2002年グジャラート大虐殺である。これは多数派のヒンドゥー教徒が少数派のムスリムを虐殺した事件で、政府の公式集計でも1180名、市民団体などの推定によれば2,000名以上が犠牲となった。犠牲者の多くは、ムスリムであった。虐殺事件の引き金を引いたのは、2002年2月27日にグジャラート州ゴードラー駅近くで起こった列車の火災事件/事故であり、ゴードラー駅でのヒンドゥーとムスリムの諍いを発端として結果的に59名のヒンドゥー教徒が焼死した。火災の原因は現在でも特定されていない。しかし、モーディー州政権は、十分な証拠もなく「事件はパキスタンが引き起こしたテロである」と断定し、翌28日よりグジャラート最大の都市であるアーメダバードでヒンドゥーによる「報復」としてムスリムの大虐殺が始まった(中溝(2015a))。モーディー州首相は、「ヒンドゥーの怒りを発散させろ」と警察に指示したとされ、実際に警察はヒンドゥー暴徒を野放しにするどころか、時に暴徒に加担した。モーディー自身は自らの関与を否定し、法的にも免責されたが、州の治安維持に責任を負う州首相として政治責任を負うことは明らかである。アメリカは2005年から彼が首相に就任する2014年まで入国禁止措置を科し、イギリスも外交ボイコットを行い、事実上の入国禁止措置を取った。

 2002年大虐殺はモーディーがグジャラートで権力を固めることに貢献したものの、国内外の政治的コストは高くついた。大虐殺から2年後の2004年総選挙で与党BJPは勝利が予想されたものの、敗北する。選挙戦において2002年大虐殺は主要な争点の1つであり、当時農村でフィールドワークを行っていた筆者は虐殺事件に怒りを抑えきれないムスリム有権者の姿を今でも鮮明に覚えている(写真参照)。政権を追われたBJP初の首相ヴァージペーイーは、「インド人民党の敗因をすべて挙げることは困難だが、〔2002年の〕暴力が敗因の1つであることは確かだ」と悔やんだ(注2)。国外の反応については前述の通りであり、政治学者のアチン・ヴァナイクは、首相就任後のモーディーが頻繁に外遊を繰り返したのは、国際社会における「不可触民」のレッテルを振り払おうとするためだったと分析する(Vanaik(2017: 369))。

 これに対し、牝牛保護団などの自警団によるリンチ事件は、1件で殺害される人数は1人から2人と少なく、2002年大虐殺ほどにはメディアの注目も集めない。その代わり、頻繁に全国規模でリンチを展開することにより、大虐殺と同様の効果、すなわちムスリムを服従させる効果を得ることができる。しかも、主体は自警団であるので、政府が直接その責任を問われることはない。このように政治的リスクを避けつつ目的を達成できるため、戦略を転換したと考えられる。

写真 2004年総選挙の選挙ポスター(インド・ビハール州)

(出典)筆者撮影。
(注)上には「・・・そして、これが私たちのビハールだ」、下には「Rashtriya Janata Dal(RJD)に投票してください」と書かれている。含意は、「グジャラートでは、2002年グジャラート大虐殺の時にムスリムが襲撃され、命乞いをせざるを得ない酷い状況であるのに対し、ビハール州では全く対照的にムスリムは幸せに暮らしている。これはラルー・プラサード・ヤーダヴ、そして彼が指導するRJDのセキュラリズムへの信念のおかげである」という点にある。

 第3の柱が、ヒンドゥー至上主義の制度化である。この動きは、2019年総選挙でモーディー政権が再選されて以降、本格化した。モーディー政権が最初に着手したのが、BJPの長年の主張であったインド最北部ジャムー・カシュミール州に認められた特別な自治権の剥奪である。ジャムー・カシュミール州は、印パ分離独立時の経緯から、インド憲法370条で他州とは異なる高度な自治権を認められてきたが、BJPはこれを特権であり撤廃すべきと長年にわたり主張してきた。ただし、最初のBJP政権(1998年から2004年の国民民主連合政権)では実行に移すことはなかった。ところが、モーディー政権は再選から3ヶ月足らずで唐突に同条を撤廃する。撤廃宣言と同時に同州を中央政府が直轄統治を行う連邦直轄地とし、同州の野党指導者を拘束したうえで外部との通信を遮断した。将来的に他州と同等の自治を与えると約束しているが、その約束が果たされる見込みはない。

 次に実施したのが、2019年市民権法改正法である。この改正法は、2014年12月31日までにパキスタン、バングラデシュ、アフガニスタン(いずれもムスリムが多数派を占める)から逃れてきたヒンドゥー教徒、スィク教徒、ゾロアスター教徒、キリスト教徒、仏教徒、ジャイナ教徒には5年間インドに居住していれば市民権を付与するという改正法である(Vanaik(2020))。市民権を付与する対象からはムスリムが外されており、インドの市民権法として宗教的帰属を要件とした独立後初めての法律となった。「ヒンドゥー至上主義者が目標とする「ヒンドゥー民族」から構成される「ヒンドゥー国家」を実現する重要な制度的布石といえる。

 もう1つ重要な動きとしては、アヨーディヤにおけるラーム寺院の建設がある。アヨーディヤとは北インドのウッタル・プラデーシュ州に位置するヒンドゥー教の聖地の1つであり、彼らが信仰するラーム神が生誕した地であると信じられている。ただし、このアヨーディヤには、インド最大のムスリム王朝ムガール朝の初代皇帝バブールの名を冠したバブリー・マスジッドというモスクが建っていた。ヒンドゥー至上主義者は、モスクはラーム王子の生誕を記念して建てられたラーム寺院を破壊して建立されたと主張し、それ故、バブリー・マスジッドを破壊してラーム寺院を再建することこそヒンドゥーの責務であると訴えた。これがアヨーディヤ運動であり、実際に彼らは1992年にバブリー・マスジッドを破壊する。その直後に北インドを中心としたインド全域で宗教暴動が吹き荒れ、2,000人以上が殺害された。いわゆるアヨーディヤ暴動であり、犠牲者の多くは、過去の宗教暴動と同じくムスリムであった。2002年グジャラート大虐殺も、アヨーディヤ運動が深く関わっている。

 バブリー・マスジッド破壊後、ラーム寺院建設の試みは司法判断によって頓挫していたが、モーディー政権が再選されて以降、動き始める。2019年11月には最高裁判決でラーム寺院建設が承認され、モーディー首相は2020年8月5日にラーム寺院の礎石を置いた(注3)これまでの司法判断を覆した最高裁長官ゴゴイは、モーディー政権との近さが噂され、最高裁長官を退任後わずか4ヶ月で上院議員に任命された。異例の人事であった。来年の総選挙直前となる2024年1月22日はラーム寺院完成を祝う開所式が実施される予定であり、モーディー首相はこれに招待されている(注4)

「ヒンドゥー国家」の実現

 これら3つの柱を軸にモーディー政権が目指しているのは、「ヒンドゥー民族」から構成される「ヒンドゥー国家」の実現である。「ヒンドゥー民族(Hindu Rashtra)」とは、100年前にヒンドゥー至上主義のイデオローグであるV.D.サーヴァルカルによって定式化された概念である(Sarvarkar(1989))。すなわち、「ヒンドゥーとは、共通の民族、共通の人種、共通の文化を持ち、インドが父の土地であるばかりでなく聖地である人々」であり、聖地がインド以外に存在する人々は「ヒンドゥー」たり得ない。この定義は、ヒンドゥー教徒以外にもスィク教徒、仏教徒、ジャイナ教徒など聖地がインドにある人々も「ヒンドゥー」に包摂する広さを持つ一方で、文化を共有していてもイスラームやキリスト教を信仰する人々は「ヒンドゥー」から排除されることになる。インドのムスリムやクリスチャンはその大多数がヒンドゥーからの改宗者であるため、排他性がより際立つことになる。そして「ヒンドゥー」であることが市民の要件とされるとき、「非ヒンドゥー」はこれまで何世代にもわたって暮らしてきたインドに居場所を失うことになる。ヒンドゥー至上主義団体の親元であり、BJPの母体である民族義勇団2代目総裁ゴールワルカルは、「非ヒンドゥーはヒンドゥーの文化・言語・宗教を受け入れないなら、このヒンドゥー国家で優先的な待遇はおろか、市民権さえ享受し得ずに従属しなければならない」と明言した(内藤(1998: 54))。先述した2019年市民権法改正法がヒンドゥー至上主義の制度化と見なせるのは、この文脈においてである。

 「ヒンドゥー国家」としてのインドは、建国の父M.K.ガーンディー、初代首相ネルーが目指した世俗主義国家としてのインドとは鋭い緊張関係に立つ。すなわち、2つのインドの対立である(図3)。ガーンディーは、宗教の違いにかかわらずインドに生まれた者がインド人として安心して暮らせる国を目指し、それ故にヒンドゥー至上主義者によって暗殺された。ガーンディー暗殺の悲劇、そして印パ分離独立によって推定100万人とされる犠牲者が出た悲劇を繰り返さないために、独立インドを率いた初代首相ネルーは、インドを宗教の違いによって殺されない国とすることを約束し、このために奮闘する。国籍法は出生地主義を採用し、宗教暴動は極力抑え込んだ。ネルーの娘であるインディラ・ガーンディーは、Secularism(世俗主義)をインド憲法の序文に書き加え、世俗主義を国家の柱として制度化した。

図3 2つのインド

(出典)筆者作成

 現在、その世俗主義国家が宗教国家に変わりつつある。BJP台頭の過程は、世俗主義国家が換骨奪胎され、もう1つのインド、すなわち宗教国家に姿を変えていく過程である。BJPを支える組織を次に見ていこう。

2.どのような勢力と政党が結びついているのか

 権威主義革命を進めるBJPは、どのような勢力や層から支持を受けているのか。そして、一方の野党はどのような支持基盤を持ち、BJPへの対抗策を講じているのか。政党を支える勢力について、背景とともに経緯を探る。

民族義勇団グループ(サング・パリワール)

 BJPの母体である民族義勇団は1925年にインド中部のナーグプルで設立された。初代総裁K.B.ヘードゲーワールは、幼少の頃からヒンドゥー至上主義の指導者であったムンジェーの庇護を受け、医学を学ぶと同時にベンガル・テロリズムに連なる秘密結社でテロ活動の技術を学んでいた(Jaffrelot(1996: 33))。当初はガーンディーが主導した会議派の独立運動に参加したが次第に幻滅し、地元ナーグプルで起こった宗教暴動からヒンドゥー社会を団結させる必要性を痛感し、サーヴァルカルの「ヒンドゥー民族」論にも刺激を受け、同団体を結成した。

 ヘードゲーワールは、民族義勇団を文化団体と規定する一方で、団体に規律を持たせるためにイタリア・ファシストの実践を取り入れた。師であるムンジェーは、ムッソリーニからイタリア・ファシストの組織を直に学び、これを民族義勇団に適用する上で大きな役割を果たした(Casolari(2000))。民族義勇団は、現在では5万以上の支部(shakha)を有し推定400万人を超える団員を有するインド最大規模の組織に成長している(注5)

 サング・パリワールとはこの民族義勇団を中心とする諸団体の総称で、民族義勇団グループといえる。BJPは民族義勇団の政治部門であり、モーディー首相は、2001年にグジャラート州カッチで起こった大震災の災害対応に失敗したBJP州政権を立て直すために、民族義勇団からBJPに送り込まれた経緯がある。BJPの他に政治的に重要な団体としては、世界ヒンドゥー協会(Vishwa Hindu Parishad)がある。これはサング・パリワールの中でも過激な団体として知られ、1980年代以降多発する宗教暴動を引き起こす上で、主導的な役割を担った。VHPの下部組織であるバジュラング・ダル(ヒンドゥー教の神であるハヌマーンの軍隊の意)は、虐殺の実行部隊として暗躍した。

 ただし、BJPの躍進は、これらヒンドゥー至上主義団体の存在と活動だけで説明できない。民族義勇団はほぼ100年に及ぶ長い歴史を持っているものの、現在ほど影響力を拡大したのは、ごく最近の話である。彼らの活動が実を結ぶに至った政治過程を次にみていこう。

インド国民会議派による支配

 1947年の独立後、安定的な支配を確立したのは、独立運動を主導した会議派であった。M.K.ガーンディーが主導した独立運動の性格を継承し、社会のあらゆる階層から満遍なく支持を集める包括政党として「会議派システム」と称された一党優位支配体制を築いたのは前述の通りである。ただし、会議派の支配は、エリート支配という性格を併せ持っていた。独立時、インド人口の80%以上は農村部に居住しており、権力を獲得するためには農村からの集票が要となった。そのため農村社会のエリートである上位カースト地主の社会経済的影響力に頼らざるを得なかったのである。会議派はその見返りとして上位カースト地主層にパトロネージを供与し、なかでも最も魅力的なパトロネージの1つである議員職は上位カースト地主に与えられた。その結果、州議会、そして下院で地主の議会が成立することになる。筆者はこの会議派の集票戦略を地主動員モデルと名付けた(図4)(中溝(2012: 44-51))。

図4 地主動員モデル

(出典)筆者作成。
(注)A村は上位カースト地主が支配的な村、B村は上層後進カーストが支配的な村である。それぞれの村には、後進カースト自作農も存在し、村全体が上位カースト・上層後進カースト地主の支配下にあるわけではないが、モデルとして簡略化している。

 図4のA村は上位カースト地主、B村は上層後進カースト地主が有力者となる村である。彼らはカースト属性で高位に立つという社会的権威に加え、地主であり雇用主であるという経済力も併せ持つ。その社会経済的影響力を行使して、後進カースト小作人(兼自作農)、指定カースト農業労働者の投票行動に影響を与えた。これが地主動員モデルである。

後進カーストの不満

 こうした会議派のエリート支配に不満を抱いたのが、後進カーストである。後進カーストの指導者は、皆で独立運動を戦ったにもかかわらず、独立後、上位カーストが主要ポストを寡占したことに不満を強めていた。この不満に着目したのが、社会主義政党である。社会主義政党は、独立前に会議派内に結成された会議派社会党を起源とするが、独立後、会議派右派により追放され新党を立ち上げていた。しかし、社会主義の看板をネルー政権に奪われたことにより、総選挙で会議派に太刀打ちできない状況が続く。そこで人口の過半数を占める後進カーストを動員し支持基盤にすることができれば、会議派支配を打倒することができると考えた。そのために彼らが打ち出したのが、憲法で導入を認められながら実施されていない公務員職留保問題であった。社会主義政党はこの実現を掲げて選挙を戦い、後進カーストの動員を図る。カースト動員戦略の誕生である(図5)(中溝(2012: 73-79))。

図5 カースト動員モデル

(出典)筆者作成。
(注)A村・B村では上位カースト地主の農地で、後進カースト小作人・指定カースト農業労慟者が働いている。C村においては上層後進カースト地主の農地で、後進カースト小作人・指定カースト農業労慟者が働いていることを示している。

 図5のA村、B村は上位カースト地主が支配する村であり、C村は上層後進カースト地主が支配する村である。カースト動員モデルは、A・B村では中層の後進カースト小作人(兼自作農)を水平的に切り取り、C村では地主動員モデルと同様に上層後進カースト地主が村全体の集票を担うことになる。ただし、C村の事例はA・B村に比べれば数が少ないため、A・B村の事例が主となる。

 このような後進カーストの支持を水平的に集めるカースト動員戦略は、農村社会では上位カースト地主の指示を後進カースト農民が聞かないことを意味するので、農村社会に緊張を生み出すことになる。そのため、当初はこの戦略はうまく機能しなかった。この戦略が機能するためには次の2つの条件を満たす必要があった。第1が、上位カースト地主から経済的に自立すること。第2が、経済的な自立に伴い、上位カースト地主の社会的権威も相対的に低下すること。この2つの条件を満たすきっかけとなったのが、1960年代後半から徐々に進んだ緑の革命の導入であった。後進カースト農民は緑の革命に積極的に取り組み、次第に富を蓄えるようになり、農業に関心を失いつつあった上位カースト地主から農地を少しずつ購入するなどして農村での存在感を高めていく。政治的にも自立が始まり、「後進カーストの利益」を代表する政党としての社会主義政党に投票するようになった。徐々に議席を増やした社会主義政党は、連立政権として政権を獲得した州で、公約である後進カーストに対する留保制度の実現をまずは州レベルから実現した。このことが農村部における後進カーストの地位を向上させ、さらに社会主義政党に対する支持を集める結果となった。

宗教アイデンティティの争点化

 このようにカースト・アイデンティティが政治的争点として重要になっていく過程で、宗教アイデンティティの重要性も高まっていく。きっかけとなったのは、後進カーストの台頭に伴う会議派の退潮であった。1977年総選挙で敗北し、独立以来中央政府を初めて失った会議派は、復権を目指して活動を開始する。その1つが、緑の革命の成功によりインドで最も豊かな州となったパンジャーブ州での権力奪還であった。パンジャーブ州は、1966年にパンジャビー語州として誕生した後、同州の地域政党であるアカリー・ダル(「不滅党」の意)と会議派が選挙のたびに政権を奪い合う激しい権力闘争を展開していた(中溝(2001))。1977年総選挙で敗北した会議派は、その後に行われたパンジャーブ州議会選挙でも敗北し、次の選挙で復権するために何らかの手を打つ必要に迫られていた。会議派が画策したのが、スィク教徒の過激派を隠密に支援してスィク教徒を分断し、スィク教徒を主要な支持基盤とするアカリー・ダルの弱体化を図るという戦略であった。戦略は当たり、1980年州議会選挙では会議派が奪権に成功する。

 しかし、過激派への支援は、これで終わりにはならなかった。パンジャーブ州会議派の内紛のために、過激派を利用する動機が存在し続けたためである。同時に、過激派の側でも自らの主張を実現しようとする動きが顕在化する。すなわち、インドから独立してスィク教徒の国家であるカリスターンを建国しようとする運動である。そのために、過激派はヒンドゥー教徒を狙ったテロ活動を1983年中頃から開始し、次第に会議派中央政府の統制が利かなくなっていった。

 激化するテロ活動を粉砕するためにインディラ・ガーンディー政権が取った手法が、過激派が拠点としていたスィク教徒の聖地黄金寺院を直接攻撃することであった。1984年6月に行われたブルースター作戦は、陸軍が黄金寺院に突入し、過激派の指導者ビンドラン・ワーレーをはじめとする過激派を殲滅するものであった。ただし、聖地を蹂躙されたスィク教徒の憤りは深く、同年10月にインディラ首相はスィク教徒の護衛に銃撃されて暗殺される。これに対し、デリー会議派の政治家が扇動した反スィク暴動がデリーを中心とした北インド一帯で起こり、約3000名が殺害される大虐殺事件となった。2ヶ月後に行われた1984年総選挙は、インディラの弔い選挙と呼ばれ、会議派が空前の議席を獲得して圧勝した(中溝(2012: 151-153))。

 会議派圧勝の影で、1980年総選挙後に結成されたBJPはわずか2議席しか獲得できなかった。党首ヴァージペーイーも落選した。ヴァージペーイーは、ジャナター党の後継者として支持基盤を広げるために、宗教問題よりも貧困問題など社会経済的問題を前面に出すいわゆる「リベラル」路線を推進していた。会議派に変わる第2の包括政党を目指す動きであったが、これに不満を抱いたのが親団体の民族義勇団である。1984年総選挙では民族義勇団はBJPではなく会議派を支持したとされ、惨敗によりBJPは解党の危機に瀕することとなった。

 危機を乗り越え、民族義勇団の支持を確保するために、BJPは宗教問題を前面に押し出す強硬路線へ回帰していく。強硬路線とは、インド人口の約8割を占めるヒンドゥー教徒の支持さえ固めればよいと考え、「ヒンドゥー票」を構築するためにヒンドゥー至上主義を打ち出す戦略であった。党首も穏健派のヴァージペーイーから強硬派のアードヴァーニーに交代し、民族義勇団系の人材を党内主要ポストに登用した。さらに、VHPが本格的に開始したアヨーディヤ運動にも積極的に参加するようになる。その1つのピークが、1989年総選挙に際してVHPが企画したラーム・レンガ行進であった。これはアヨーディヤにラーム寺院を建設するためのレンガを全国各地からアヨーディヤに運ぶ運動であり、選挙期間中に企画されたことから、露骨な選挙運動であった。行進は各地で数多くの宗教暴動を引き起こし、さらにラーム寺院の定礎式も強行されたことから、宗教アイデンティティが争点化された。会議派政権は、ヒンドゥー教徒の離反を恐れてサング・パリワールの活動を制限できず、数多くの宗教暴動も防げなかった。結果的に伝統的な支持基盤であるムスリムの離反を招き、会議派は1989年総選挙で敗北した。対照的にBJPは議席を2議席から85議席へと大きく伸ばした(中溝(2012: 159-232))。

アイデンティティの政治

 1989年総選挙は、「会議派-野党システム」から競合的多党制へと変わる分水嶺となった選挙である。敗北した会議派は、現在に至るまで単独過半数を獲得することができていない。この選挙ではBJPも躍進したが、これ以上に躍進したのが社会主義政党系を基盤とした新党ジャナター・ダルである。新政権はジャナター・ダルを中軸として作られた国民戦線(National Front)によって率いられ、国民戦線政権下で後進カーストに対する公務員職留保制度の実施が宣言されることになった。会議派政権下で長年実施が棚上げにされてきた同制度の実施は、上位カースト学生を中心とした反対運動を引き起こし、これに対して公務員職留保制度の実現を強く求める後進カーストの反撥を惹起し、上位カーストと後進カーストの間で対立が激化した。カースト・アイデンティティの政治争点化である(中溝(2012: 第7章))。

 この事態に危機感を覚えたのが、「ヒンドゥー票」構築へ邁進していたBJPである。カースト間の対立は、彼らが目指していた「一体となったヒンドゥー」を解体するものであり、イデオロギー的にも、集票戦略としても、阻止しなければならない事態であった。そこでBJPは、自らが主体となってアヨーディヤ運動を再開する。党首アードヴァーニーをラーム神に見立ててインドを行脚し、最終的にアヨーディヤを目指す山車行進であった。この行進の企画者の1人がモーディー首相であり、行進の出発点は、グジャラートに位置し、ムスリム王朝によって破壊されたとされ独立後に再建されたソームナート寺院に定められた。ヒンドゥー至上主義者が主張する「ムスリムの蛮行」を克服する象徴としての意味があった。

 山車行進は、前年に行われたラーム・レンガ行進と同様に、各地で宗教暴動を引き起こした。国民戦線政権を率いたV.P.シン首相は、アヨーディヤ問題の解決を巡ってアードヴァーニーBJP党首と協議したが、妥結には至らなかった。アードヴァーニーが山車行進を再開したため、V.P.シン首相は宗教暴動の犠牲者をこれ以上出さないために、アードヴァーニー逮捕をビハール州首相ラルー・プラサード・ヤーダヴに命じる。逮捕を受けてBJPは国民戦線政権への閣外協力を撤回し、政権は崩壊した。V.P.シン政権は短命に終わったが、カースト・アイデンティティと宗教アイデンティティが交錯するアイデンティティの政治を象徴する政権であった。

現職不利の法則

 1991年に再び総選挙が行われ、会議派が第1党となったものの、過半数を獲得するには至らなかった。以後、2014年総選挙まで、1999年総選挙と2009年総選挙を除いて選挙の度に政権が交代する流動性の高い政治状況が生まれる。支持政党変動率を示した表6からは、BJPと左翼戦線という左右両翼のイデオロギー政党を除くと、有権者のほぼ半数が選挙の度に支持政党を変えていることがわかる。表7は下院議員の再選率を示したものだが、1989年総選挙以降、概ね半分の議員が選挙の度に入れ替わっていることがわかる。

表6 支持政党変動率(1991~98下院選)

(出典)Yadav(1999: 2396, Table 5)
(注)1991年選挙で会議派連合を支持した人が次の1996年選挙で再び会議派連合を支持した比率(%表示)を示している。会議派の事例では53%の人が再び会議派を支持した。

表7 再選率(1980~98下院選挙)

(出典)Yadav(1999: 2395, Table 4)

 州レベルに目を転じると(表8)、現職が再選された比率は人口の多い主要州で18%、全インドでも23%に過ぎず、政治学の常識に反して、現職の方が不利になる選挙結果となっていることがわかる。

表8 政権交代率(1989~99州議会選挙)

(出典)Yadav(1999: 2396, Table 6)
(注)主要州とは下院議席10議席以上の州を指し、小州には連邦直轄地も含む。単位は%表示。

 このように、1990年代においては、現職であることが必ずしも有利とならず、むしろ逆に不利となったことから、「現職不利の法則」がメディアによって唱えられた。こうした流動性の高い政治状況が、競合的多党制期の特徴のひとつであった。

下剋上の時代

 このように高い流動性は、アイデンティティの政治、すなわち特定の政党と特定のコミュニティが結びつく政治を強化した。政党にとって流動性が高まるほど盤石な支持基盤を確保することの重要性は増し、カースト・宗教アイデンティティが政治争点化した状況では、両アイデンティティに基づく社会集団の支持を固めることが肝要となる。その結果、数では多数派を占める中下層カーストの支持を得た政党が政治権力を獲得し、数では少数派となる上位カーストの支配を覆すこととなった。下剋上の時代の到来である。この変化は、インド政治の民主化といえる。政治体制自体は民主主義体制として継続したため、通常の意味での体制変動を伴う民主化ではないが、政治権力の中心が社会の上層から中下層に移るという意味での広義の民主化である。

 BJPは「ヒンドゥー票」の構築を目指していたため、成功すればカースト集団の境界を超え、これを束ねる巨大な支持基盤を獲得することになる。しかしBJPは、バラモンを中心とした上位カーストが支配する政党という性格が会議派以上に強く、ヒンドゥー社会の中下層に浸透することが課題となっていた。そのため、一党優位支配の復活をめざし単独での過半数獲得に固執した会議派とは対照的に、積極的に他党と政党連合を組むことによって政権の獲得を目指した。この努力が功を奏して1998年総選挙で勝利し、初めて自らが主導権を掌握した国民民主連合(National Democratic Alliance)政権を樹立することに成功する。

 国民民主連合政権は内紛により過半数を失い、1年あまりで崩壊した。しかし、1999年5月にパキスタンの侵入により発生したカルギル紛争でパキスタンを撃退することに成功し、1999年総選挙で再選される。国民民主連合全体として議会での勢力は増やしたものの、BJPの議席は182議席と過半数に90議席足りない状況であった。この政権で起こったのが、先述した2002年グジャラート大虐殺である。BJPは、宗教暴動で宗教意識を先鋭化させ、「ヒンドゥー票」を構築することを重視してきたが、その典型といえる虐殺事件であった。当初、ヴァージペーイー首相は、ムスリム犠牲者のあまりの多さにモーディー州首相の解任へ向けて動く。しかし、政権No.2で強硬派の代表であるアードヴァーニー内相がこれに反対し、結局ヴァージペーイーもモーディーの続投を承認せざるを得なかった。2004年総選挙で敗北した後、前述のようにヴァージペーイーは2002年大虐殺を嘆くことになるが、遅きに失した。以後、全国政治の流れとは逆に、モーディー州首相は地元グジャラートで権力基盤を着々と固めていくこととなる。

民主化のパラドクス

 BJPの台頭は、会議派支配の崩壊と裏腹に進んでいった。1990年代の政治は、中下層カーストの台頭というインド政治の民主化が特徴であったが、BJPはこれら新興勢力間の対立を巧妙に利用して政党連合を結成し、中央政府を獲得した。政権掌握から間もない1998年5月にインド核実験を実施し、暴力こそ力であるという民族義勇団の信条を体現する。さらには、2002年グジャラート大虐殺でヒンドゥー至上主義の主張を実践する。2004年総選挙では、政党連合結成(統一進歩連合)に本格的に取り組んだ会議派に敗北したものの、モーディー州首相は力を蓄え、2014年総選挙で政権を奪取するに至った。

 2014年総選挙でモーディー首相が勝利した要因として、主に3つあげることができる。第1が、失業問題であり、モーディー首相には「雇用なき成長」と呼ばれるインド経済の課題を克服する期待が寄せられた。2004年からマンモーハン・シン首相が率いた会議派連合は、時に10%を超える経済成長率を実現したが、2008年のリーマンショックの後、2011年頃から経済成長の鈍化とインフレが同時に進行するスタグフレーションに陥った。このため、前述のようにグジャラート州で高度経済成長を実現したモーディー首相が掲げる「グジャラート・モデル」が説得力を持った。

 第2が、会議派連合政権の不人気である。スタグフレーションと同時に、巨額の汚職事件が明らかとなり、会議派政権に対する不満が高まっていった。この過程を、次の表9からも確認することができる。

表9 反会議派感情の推移

(出典)Chhibber and Verma(2014: 52, Table 1)より筆者作成
(注)UPA政権とは、統一進歩連合政権(United Progressive Alliance)の略。

 第3が、モーディー個人に対する人気である。2014年の時はモーディーを首相候補として売り込む大々的なキャンペーンが行われたこともあり、津波のようなウェーブが生じたとして「TuNaMo」と呼ばれた。モーディーは後進カーストの出身であり、若い頃は露天でチャイ(インドのミルクティー)売りをして生計を立てていた。これまでのBJP指導者とは異なる、いわば恵まれない出自から首相候補にまで上り詰めたサクセス・ストーリーが、失業問題に喘ぐ若者を中心にアピールした。とりわけ、これまでBJPが惹きつけられなかった中下層カーストの支持を獲得したことが勝利に貢献した。同時に、サング・パリワール内部でも、モーディーの出現は、上位カースト支配を打破する下剋上の要素を持っていた。いわば、BJP党内において、権力の中心が後進カーストに移行するという意味での民主化である。これはサング・パリワール内部の中下層カースト出身者の強い支持を獲得したと推定される。

 このようにモーディー政権は、インド政治の民主化の流れから誕生した。独立運動を率いた会議派の支配は、包括政党としてあらゆる社会階層からまんべんなく支持を集めていたものの、上位カースト支配というエリート支配の特徴を有していた。これに反撥した後進カーストが徐々に力をつけ、1990年代には上位カーストから奪権する民主化の時代を迎える。しかし、激しい政治的競合のなかでアイデンティティの政治が顕在化し、カースト間の亀裂を乗り越え「ヒンドゥー票」を構築しようとするBJPが次第に勢力を伸ばし始める。モーディー政権の成立はこの延長上にあり、彼の政権の下で権威主義革命がすすむ現状は、まさに民主化のパラドクスといえよう。

3.直近の選挙

2019年総選挙

 2019年総選挙は、モーディー政権が逆風の中で迎えた選挙であった(注6)。「グジャラート・モデル」を掲げ、失業問題の解決を約束したにも拘わらず、2016年11月に唐突に実施した高額紙幣廃止政策で経済は大混乱に陥り、経済成長率は低下を続ける。選挙の直前には失業率が1972年度以来最悪を記録したと報じられたが、モーディー政権は調査結果の公表を拒否する(中溝(2019))。総選挙直前の2018年12月に行われた州議会選挙では、BJPの牙城と考えられていたインド中部マディヤ・プラデーシュ州、チャッティースガル州で敗北し、西部のラージャースターン州でも敗北した。そのため、与党連合の国民民主連合は議席を減らすという予想には説得力があり、対する統一進歩連合がどこまで議席を増やすことができるかという点が焦点となっていた。

 この逆風を変えたのが、総選挙直前のパキスタンに対する空爆であったとされる。総選挙直前の2019年2月にジャムー・カシュミール州(現在は連邦直轄地)で準軍隊隊員が40名以上爆殺されるテロ事件が起こると、モーディー政権は「テロリストの拠点に報復攻撃を行う」としてパキスタン領内に侵入して空爆を行った。2002年グジャラート大虐殺後の2002年グジャラート州議会選挙で用いられたのと同様の反パキスタン・プロパガンダが大々的に展開され、選挙戦の潮目を変えたとされる。結果的に、BJPは2014年から21議席増やして303議席を獲得し、政権基盤を固めると同時に国民民主連合内での優位を確たるものとした。対峙した会議派連合は28議席増やしたものの90議席にとどまり、会議派は野党指導党(Leader of Opposition)としての地位を2014年に続けて逃した。BJPの圧勝であった。

 それではBJPに投票したのは誰か。全国紙『ヒンドゥー』とCSDS(発展途上社会研究センター)の選挙調査(以下、CSDS調査)によれば、BJPはヒンドゥー各層の支持を前回より伸ばした。ヒンドゥー教徒全体では36%から44%に伸ばし、上位カーストは47%から52%、後進カーストは34%から44%、ダリト(かつての不可触民)は24%から34%の上昇である。2014年総選挙で社会的中下層階層の支持を得たことが政権獲得の鍵となったが、2019年総選挙では、彼らのより強い支持を取り付けたことがわかる。筆者は、インド北部のビハール州において、シンガポール国立大学のネヤジ博士と独自調査を行ったが、CSDS調査とは数値が異なるものの大まかな傾向は一致している。

 これを踏まえた上でBJP圧勝の要因を考察すると、主に3つ指摘できる。第1が、有権者による国政選挙と州議会選挙の峻別である。今回の選挙は中央政府の首相を選ぶ選挙であるという認識が一般的であった。そこでモーディーに代わる指導者はいないという判断を下した有権者が多数を占めたと考えられる。筆者のビハール州調査でも、会議派指導者であるラフール・ガーンディーを「とてもよい」と評価した人は9.7%に過ぎず、モーディーの59.1%には遠く及ばなかった。

 第2が、野党連合形成の失敗である。2015年ビハール州議会選挙で成功を収めた反BJP連合は大連合と呼ばれ、今回の選挙の要となった。インド最大の州であるウッタル・プラデーシュ州では社会主義者党と大衆社会党が長年の恩讐を乗り越えて連合を組んだものの、会議派が加わらず、結局成果を上げることができなかった。ビハール州では、2017年に大連合自体が崩れてしまい、その影響は今回の選挙に覿面に現れた。

 最後に、ヒンドゥー至上主義イデオロギーの浸透である。冒頭で述べたように、モーディー政権の1期目では牝牛保護団などの自警団組織によるヒンドゥー至上主義の新戦略が採用された。筆者の調査結果による限り、ヒンドゥー至上主義的政策に対する有権者の支持は総じて高い。これらを積極的支持と解釈するか、もしくは、消極的支持、すなわち黙認と捉えるかという点はより詳細な検証が必要であるものの、少なくとも反撥する声が小さくなっていることは確認できる。

 このように2019年総選挙で権力基盤を固めたモーディー政権は、「服従の政治」の要となるヒンドゥー至上主義の制度化に乗り出していくことになった。

今後の動向

 来年2024年4月から5月にかけて実施されると予想されている総選挙へ向けて、事実上の選挙戦はすでに始まっている。来年の総選挙を見通す上で注目すべきは次の3点であろう。

 第1が、経済運営である。なかでも1番の焦点は、物価上昇と失業問題である。過去の選挙でも物価上昇に直面した現職は選挙で敗北することが多く、モーディー政権が誕生した2014年総選挙は、その好例となる。BJPが関わった選挙でいえば、古くは1980年総選挙がこれに該当し、インドの食卓に欠かせないタマネギの価格が高騰し現職のジャナター党が敗北したことから、「タマネギ選挙」と称された。そしてタマネギの価格は、現在、高騰している(注7)

 現在の物価高騰は世界的な現象であり、気候変動に伴う天候不順に加えて、ウクライナ戦争やパレスチナ紛争という国際政治情勢も絡んだ複雑な要因から発生している。筆者がネヤジ博士と実施した2020年ビハール州議会選挙調査と2022年ウッタル・プラデーシュ州議会選挙調査によれば、有権者の関心の推移は明らかであった。コロナ禍の最中に行われた2020年ビハール州議会選挙では、有権者が最も重要な争点としてあげたなかで首位に立ったのが雇用問題(32.9%)であり、インフレは2.8%に過ぎなかった。これに対し、ウクライナ戦争開始とほぼ同時期に行われた2022年ウッタル・プラデーシュ州議会では、インフレが40%で首位となり、雇用問題は20.4%にとどまった。モーディー政権は、国内のインフレを沈静化すべく、コメ、小麦、タマネギなどの輸出に輸出禁止、もしくは高率の輸出税などをかけて輸出規制を行っているが(湊(2023))、その効果はいまだ十分には現れていない。

 第2が、野党連合の成否である。これまで野党連合の中心は、会議派を軸とした統一進歩連合(United Progressive Alliance)であったが、2023年7月に、パートナーをさらに拡大し26党から構成されるINDIA連合(Indian National Developmental, Inclusive Alliance)に組み替えた(注8)。543議席中142議席を占める野党連合は、数としては依然小さいものの、完全小選挙区制を採用するインドにおいてモーディー政権と対峙しうる力を持っている。2023年9月のG20サミットで、モーディー政権は、唐突にIndiaではなくBharatを国名として表記したが、これはINDIA連合への牽制であるという憶測も流れた(注9)

 第3が、モーディー政権が二期目で推進したヒンドゥー至上主義の制度化の効果である。冒頭で述べた市民権法改正に加え、アヨーディヤのラーム寺院は総選挙直前の2024年1月22日に開所式が行われる。モーディー首相は開所式に招待されてこれを盛大に祝う予定であると同時に、来年のラーム神生誕祭(Ram Navmi)は、アヨーディヤのラーム寺院で盛大に祝われるであろうとスピーチした(注10)。ラーム神生誕祭は昔から「暴動生誕祭」と呼ばれてきたほど宗教的緊張が高まる祭りであり、これが総選挙最中の2024年4月17日に行われる予定である。このようなアヨーディヤのラーム寺院に象徴されるヒンドゥー至上主義の影響は、国民統合をめぐる「2つのインド」の行方を左右する重大な論点となる。

4.対外関係:「服従の政治」の国際化

 モーディー政権の至上命題は、ヒンドゥー国家の実現である。その実現のためには総選挙に勝利し、中央政府を掌握することが何よりも大事となるため(Nakamizo(2023))、選挙に勝つためには手段を選ばない。その意味で基本的に内向きの政権であり、国際社会における理念の実現や秩序形成への関心は二の次となる。この傾向が顕著に見られたのがウクライナ戦争であり、ロシアを非難する安保理決議や国連総会決議には一貫して棄権し、制裁で行き場を失ったロシア産原油を大量に安価で購入している。「燃料が安く手に入るならば、なぜそれを買ってはいけないのか?」というシーターラーマン財務相の開き直りは、武力による主権侵害を廃絶しようとする国際社会の努力への無関心を端的に示している(注11)。筆者は、こうしたモーディー政権の外交を「漁夫の利」政策と特徴づけた(中溝(2022))。

 2023年9月に開催されたG20首脳会議でも、「内向き」の姿勢は顕著に見られた(注12)。持ち回りで決められる議長国は、本来は2022年がインドで2023年がインドネシアであったが、来年の総選挙を睨んだモーディー政権はインドネシアと交渉し、順番を交代してもらった。2018年にも2019年総選挙を見越して議長国となることを狙ったが、アルゼンチンに断られたという逸話がある。こうして手に掴んだ機会を、モーディー政権はヒンドゥー国家の喧伝に全面的に活用した。

 耳目を集めたのは、インド(India)の国名がいつの間にかバーラト(Bharat)に変わった点である。両者とも憲法に明記された正式国名なので法的に問題はないが、従来は英語ではインド、ヒンディー語ではバーラトと使い分けられていた。この使い分けが、今回、政治化された。Indiaが、インダス河流域を指すサンスクリット語Sindhu(水・水流の豊かなところ)を語源とするのに対し、Bharatは、ヒンドゥー教の神話に登場する神話的地理概念であり、現在のインドを指す実体的地理概念ではない。その意味で、イスラーム勢力に支配される以前の、古(いにしえ)の輝けるヒンドゥー王国といった意味合いが強く、ヒンドゥー至上主義の主張に沿う概念となっている。モーディー首相が各国首相を迎えた際に背景にあしらわれた法輪はヒンドゥー教の象徴であり、イスラーム勢力を撃退した大ガンガ朝が建立した太陽寺院のレリーフであった。このようにヒンドゥー至上主義のアイコンが至る所にちりばめられた会議であった。

 国際社会にとって深刻な意味を持つのが、「服従の政治」の国際化である。今回、モーディー議長は、首脳会談初日に首脳宣言を発表し、首脳会議で議論する意味を奪った。重要な決定を議論なしに唐突に宣言し、狼狽する国民を尻目に既成事実化を図る政治手法は、これまでのモーディー政権で繰り返されてきた手法である。これを今回、世界の首脳が集まる国際会議で断行した。焦点となっていたのはウクライナ戦争に関する態度表明であり、モーディー首相は各国首脳の虚を突く強引な手法でインドの立場をG20の首脳宣言とすることに成功した。G7議長国の日本をはじめとして、ウクライナ支援の要であるアメリカもこれに異議を唱えなかったためである。

 議論に先立ち共同宣言を発表する手法は、その後のG20会議でも繰り返されている。パレスチナ情勢が緊迫する2023年10月半ばに開かれたG20財務相・中央銀行総裁会議でも初日の夕方に共同宣言が採択され、パレスチナ情勢への言及は一切なかった。議長を務めたインドのシーターラーマン財務相は、「中東の紛争について共同声明に入っていないことが驚きだ」と問われたのに対し、すでに共同声明が発出されているので、「入れる余地がなかった」と答えた(注13)。ウクライナ戦争にせよ、パレスチナ紛争にせよ、これら紛争が世界経済に与える影響が明白ななかで、これらに正面から取り組まないG20の存在意義が問われる事態になっている。「服従の政治」の国際化したことの危険性をここにも確認できる。

5.権威主義革命にどう抗うか

 インド国内、そして国際政治の舞台でも進む「服従の政治」にどのように抗えばよいか。鍵となるのは、インド国内、そしてグローバルな市民社会のネットワークである。

 ヒンドゥー至上主義の制度化の象徴的な政策である2019年市民権法改正法に対しては、同年12月の制定直後から大規模な反対運動が高揚し、モーディー政権始まって以来の全国的な反政府運動に発展した。2020年1月26日の共和国記念日(憲法公布記念日)には、デリーに約10万人の市民が結集し、同法に対する抗議の声を上げた。全国紙『ヒンドゥー』は、「宗教に基づいて特定の権利を与えられることは憲法には書かれていない。…今日〔排除されているの〕はムスリムだが、明日にはスィクやキリスト教徒など他の宗教的少数派が〔排除の対象に〕なり得る」という参加者の声を紹介している(注14)

 抗議運動は、コロナ禍に乗じて唐突に宣言された全インド封鎖によって終結を余儀なくされたが(注15)、権威主義革命が進行するなかでも、インドには抗議の声を上げる余地がまだ残されていることを示した。野党勢力の力は弱いが、それでも州議会選挙でBJPを破る力は残っている。インドの民主主義は死にかかっているかもしれないが、死に絶えてはいない。

 同様に重要なのは、グローバルな市民社会のネットワークである。これを象徴する事件が、2023年1月に起こった。イギリスの公共放送BBCによるドキュメンタリー・シリーズ『India: The Modi Question』の放映である。第1回では2002年グジャラート大虐殺におけるモーディー首相の責任を正面から問い、第2回ではモーディー政権下で進行するヒンドゥー至上主義の制度化を取り上げた。インド政府は即座に反応し、外務省報道官が、同番組を「偏向し、客観性を欠き、植民地支配者の心性をあからさまに示している」と強い口調で非難した(注16)。同番組はインドでは放映されなかったものの、FacebookやTwitter(現X)を通じて拡散し、デリーの名門大学では学生が公開上映するイベントが企画された。BJP系の学生団体による妨害や警察による学生の逮捕などでイベントは封じ込められたが、動画の拡散は続いた。インド政府は、BBCに対して税務査察を実施して、事実上の圧力を加える。イギリス下院では、BBCに対する周到に準備された脅迫だと議論されるなか、外相がBBCの報道姿勢を擁護し、アメリカ政府は報道の自由の重要性を改めて表明する事態に至った(注17)

 この顛末からわかることは、モーディー政権が国際的な評判をかなりの程度意識しているということである。2002年グジャラート大虐殺の後、アメリカから入国禁止措置を科され、イギリスから外交ボイコットを受けた屈辱の経験は、モーディー首相にとって忘れ難い経験だろうと推測できる。ことある毎に「世界最大の民主主義国」を持ち出すのも、自らの権威主義革命を覆い隠す意図があると考えられる。逆に言えば、モーディー首相が民主主義の看板を下ろさない以上、彼の権威主義革命に対する批判は意味を持つのである。インド国内の市民社会とグローバルな市民社会のネットワークがつながり、声を上げることの重要性は強調しても強調しすぎることはない。

参考文献


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引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)中溝和弥(2023)「アジアの「民主主義」第1章インド―権威主義革命と「世界最大の民主主義国」の行方―」NIRA総合研究開発機構

脚注
1 The V-Dem Institute Team(2021)p.11<参照のこと。同報告によれば、2010年から2020年までの10年間では、トルコやブラジルと並び、インドは権威主義化が最も進んだ国として分類されている。
2 "Gujarat Riots a Cause of Defeat: Vajpayee", Rediff.com, 2004/06/12(最終閲覧日:2023年8月31日)
3 'Grand temple will be built for Ram Lalla who lived in temporary tent for yeays PM Modi', The Hindu, 2020/08/05(最終閲覧日:2023年11月6日)
4 'PM Modi to attend inauguration of Ram Temple in Ayodhya on January 22' The Hindu, 2023/10/26(最終閲覧日:2023年11月6日)
5 Suvojit Bagchi, ‘RSS membership doubled in 10 years, says its official’, The Hindu, 2019/08/15(最終閲覧日:2023年11月11日)を参照のこと。4年以上前のデータなので、もっと増えていると想定される。民族義勇団はメンバー数など公開していない。
6 2019年総選挙分析については、中溝(2019)で詳説した。
9 Dhawal S. Kuikarni, 'Onion tears for consumers again', India Today, 2023/10/31(最終閲覧日:2023年11月11日)
8 Nagesh Prabhu, '26 Opposition parties form INDIA (Indian National Developmental, Inclusive Alliance), to take on NDA in 2024', The Hindu, 2023/7/18(最終閲覧日:2023年11月11日)
9 '"Bharat" replaces "India" in G-20 invite from President', The Hindu, 2023/09/06
10 Rakesh Mohan Chaturvedi, 'Next Ram Navami will be at Ayodhya's Ram temple: PM Narendra Modi', The Economic Times, 2023/10/25.(最終閲覧日:2023年11月11日)
11 'India to continue oil purchases from Russia: FM Nirmala Sitharaman', The Economic Times, 2022/04/02.
12 G20サミットについては、中溝(2023b)で詳説した。
13 山本恭介「(取材考記)財務相会議 中東情勢触れぬG20、意義は」『朝日新聞』2023/11/02
14 Dadis of Shaheen Bagh hoist Tricolour on R-day', The Hindu, 2020/01/27, p.3.
15 モーディー政権のコロナ禍に乗じた権威主義的手法を惨事便乗型権威主義と定義した論考について、中溝(2020)を参照のこと。
16 “Colonial mindset blatantly visible”: MEA on BBC documentary about Gujarat riots", Scroll.in, 2023/01/19(最終閲覧日:2023年8月24日)
17 ‘Income tax surveys at BBC offices continue for third day', The Scroll.in, 2023/02/16(最終閲覧日:2023年8月24日)UK Parliament, Hansard, "Raid of BBC Offices in India", volume 728: debated on Tuesday 21 February 2023最終閲覧日:2023年8月24日)Ned Price, Senior Advisor to the Secretary of State, Department Press Briefing-February 14, 2023.最終閲覧日:2023年8月24日

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